シュタイナーやゲーテのとった最高の態度は、自らの制限された思考や思想で、物事を判断したり、ジャッジしたり、結論づけたりしなかったことです。

つまり、対象そのものが秘密をうちあけてくれるのを待つんです。
事物が、教えてくれるのを待つんです。

エッカーマンとの対話で、ゲーテは、
「なぜ」とか「目的を尋ねる」のは真の学問ではない、といいます。

「いかに」と、問うことによってのみ、先に進める、というのです。

じつは、「なぜ」という問いは、安易な、独りよがりの結論しか導けません。自分の限定された思考を越えることが出来ないのです。
なぜ、牛は角を持っているか?と問えば、脳ミソや思考は、すぐに結論へ導こうとするでしょう。

例えば、     身を守るため。  
と答えるかもしれません。


じゃあ、なぜ羊は角がないのでしょう。なぜ、耳のところで角が曲がっているのでしょう。これでは、何の意味もないでしょう。

しかし、 牛はいかにして角を持っているかを尋ねたら、この生物の観察に導かれます。

観察によって、事物がこちらにむかって秘密をうちあけはじめます。

つまり、シュタイナーやゲーテが多種多様な実りある仕事に導かれたように、
私たちも、判断ではなく、積極的な観察や熟視によって、事物からのうちあけを待つことで、同じように実りを生み出せるのです。

その一つのツールが、この問いかけです。


いかに。

どのように。


これらは、かなり知られたことです。 ゲーテやシュタイナーを読んでみてください!

では、人間への観察はどうでしょう。人間そのものもそうですが、個人にはどうでしょう。
ほとんどの人が、ジャッジしてくると思いませんか?
ジャッジをさけて、私たちを観察してくれて、私たちから語りかけるのを待ってくれる人がどれだけいるでしょうか?
だから、そんなまれな人だけが指導できる人なんでしょう。  

また、自分自身や人生に対してはどうでしょう。
すぐに、なぜ?と問うことで、自分の人生を限定したり、決めつけてはいないでしょうか。


そうではなく、観察してみるといいかもしれません。
今までいかに生きてきて、いかに人生が流れているか、いかに様々な個性があらわれているか、  
いかに、どのようになっているか、

そうしていくうちに、人生が、事物が、内側が、語り出すでしょう。間違いのない、答えがあちからから、もたらされるかもしれません。