高校1年生ではじめて海外で学んでから、外国語学習の方向性が変わりました。
日本語ー英語ードイツ語ーフランス語で
スイッチを切り替えることです。

授業はほとんど寝てましたが、洋書だけは読んでいました。語学力がまだまだで洋書自体は、まだ理解できなかったので、翻訳の外国語文学も沢山読んでました。
それから、日本文学。小学生のときは、ライトノベルからはじまって、宮沢賢治にはまりました。その流れで、川端とか芥川とか色々読みました。ドイツ語をやろうときめたのは、森鴎外の舞姫がきっかけ。ベルリンに行こう、と!

日本語:
文法はもういいよねw
日本文学は、あまりはまらなかったのですが、
正直に、川端の雪国はすごかった。芥川の河童とか。太宰はすごい頭おかしいけど、趣味ではなかったです。夏目漱石は、その生き方のほうが楽しかったです。
日本文学の楽しみ方はわからないのですが、川端の雪国は、日本語のすごさがもろに出ている感じがしました。

英語:
大学入試対策のために、高校生の途中から、高校英語の授業を真剣に受け始め、日本型英語学習を平行しましたが、このときの脳みそガツガツ・ゴリゴリ感と英語の難しさといったらなかったです。
それでも、周りから馬鹿にされ、意味の分からない単語の覚え方で必死で覚えて、後日、すべて忘れました。もう一度定義しなおしです。
このときすでに、趣味で洋書を読んでいたので、長文は読めました。


たとえば、
consternationとdismayが同じだと、日本語の辞書を読んで分かりますか??つながりますか?
ということなんですよねー。

tolerate=to put up withとか。
これは、昨日読んでた本の一行目とその次の行に言い換えで出てました。このあたりなら、高校生でも使うかな??たしか。

英語は何のためにあるか?読んで話して聞いて書くこと。翻訳したいのでしょうか?ってことなんですよね。
んー、なんていうのかな。
やっぱりスイッチ切り替えで、やるほうがいいと思うんです。

洋書読むのは楽しいし、ディスカッションは楽しいし、文法も大事で楽しいですよ。
たとえば、今朝は、I'm from Missouri(ミズリー州出身です)が、なぜ、疑り深い人になるのか、調べていました。証拠見せろ!ってやつですね。
(例) you might swallow his promises, but I'm from Missouri.
必ず起源の意味はあるはずなので・・・
諸説はあるみたいですが、1899年のWillard Vandiverのスピーチのようですよ。


ドイツ語:ドイツ語は、もうそれこそ色々読みました。でも、最近では、ドイツ語の詩の美しさがわかってきて、実は、ドイツ語ほど詩に向いている言語はないのじゃないか、と思っています。構造的な骨に、漏れる木漏れ日(←なにいってるんだろうww)みたいな。
特に、文法の愉しみ方は、英語とは少し変わります。
これを説明すると、なんかおかしなことになるので、一度ドイツ語をやってみてほしいです。
覚えるまでは大変大変苦痛です。
語学好きな私でさえ、冠詞の変化で一度やめようかと思いました。←私には無理かと思った。

でも、6年目くらいになってから、最初に、ドイツ語で話す楽しみにめざめ、
10年目くらいから、本気でドイツ文学にドハまりしました。ドイツ語そのものの美しさに。

さて、上記の日ー独ー英の脳みそチャンネルは、完全に独立しています。
すべて、英語なら英語で、ドイツ語ならドイツ語で、日本語なら日本語で学習しています。当たり前だのクラッカーです。
こうして、記事にするときや、翻訳するときに、ようやく日ー独ー英の世界に橋をかけます。
今、私は必死で、この3つのチャンネルに橋をかけています。
要は、教えたり、訳したり、通訳したり、本を即興リーディングしたりする機会がどんどん増えているんです。
それから、もうひとつの世界、フランス語の世界をつくること。これ、いまのところ、ドイツ語と英語に支えてもらう初級にとどまっているのです。学生のころと違って、時間がとれないんです。
学生の身分は最高ですよ。真剣に生きて欲しい。ものすごい時間の宝物がもたらされています。