1921年10月のドルナッハでのシュタイナーの講演シリーズは、とても今の私にひびきます。


テーマは、人間の霊的生活、人間の魂的生活、人間の肉体的生活をどうやって理解できるのってことがひとつ。


それで、人間の魂的な生活をみてみると、内的な人間には、思考、意志、感情が流れているように感じるでしょうってことで、

思考は、肉体と生命体の間を、感情は、生命体とアストラル体の間を、意志は、アストラル体と自我の間を流れててる。


※肉体は、体

生命体は、植物と共有して、生きさせてもらえる力

アストラル体は、動物と共有していて、快や不快などの感情をつかさどるところ

自我は、まさに「私である」という意識






実際に、シュタイナーが描いた図


私たちが意識しているのは、人間の本質の奥深くから、「私」にむかって流れてくる波がうってくるようなもので、

実は、私たちは、その波をみているにすぎない。

思考内容は、身体と生命体の中をただよい、感情内容は、生命体とアストラル体にただよい

意志が実は一番意識に近い、アストラル体と自我の間をただよう。

意志のなかで、自我は、直接体験することができる。


確かに、私たちの経験している意志内容はぼんやりしています。、眠りと目覚めのなかで生きている以上にしることは難しい。意志は、わたしたちのなかでほんやりと生きていますが、それでも、自我の近くにあります。



どういうことかと、いうと、

人間の本質そのものが意識できる領域のずっと奥深くにあるんだけど、

そこからくる影としての思考があることで、意志を知覚していまる。


じゃあ、私たちが経験する、イメージや、表象は、どうか、それは完全に魂のゆらぎの影の絵でしかなくて、

一応、意志は、順々にあがってきた人間本質の影としての思考によって、直接体験することができるものなんです。とてもぼやけた弱いものだけど。


つまり、こんなふうに何層にもなっているから、人間の本質を知ろうとしたときに、

実は私たちが意識しているのはこんなに小さいよってシュタイナーは教えてくれました。




また、先を読んだら、メモします。




ちなみに、私がよく言われるのですが、「あなた、何も知らないでしょ」ってことです。たしかに、シュタイナーの膨大な知識を前にして、しり込みしていますが、でも、はじめなければ、絶対にわかるようにならないでしょ?これって変ですか?

どうして、いけないのでしょうか。中途半端な知識で、調べたり、感想書いたりしてはいけないのでしょうか・・・。間違いを恐れてたら、何ができるでしょうか。

私の目標は固いです。それを逆算したら、今、この時点で、1分も時間を無駄にしたくない。どんどん読んでいかなきゃいけない。水彩だってフォルメンだってオイリュトミーだってやる。

でも、先生はえらぶ。勝手なジャッジで、私に枠をつけようとするのはごめんだ。すごい先生は、枠なんて絶対につけないで、私を導いてくれる。


それと、日本語にない部分を読んではいけないのでしょうか。

シュタイナーの文献は、全世界の人に自由に公開されています。だから、自由に使っています。

もはや、日本語に訳されている範囲とかどーでもいいです。

でも、資料チェックはしています。(これは日本語しか読めない人にいつか使えるかな、と思って)

とにかく、どんどん理解していく努力(楽しい努力)を重ねて生きます。

理由はドイツ語とシュタイナーを愛しているからです。




どんなえらい人でも、私の情熱を殺すくらいなら、別の場所へいきます。

今までの経験上もそうでした。それでもやめなかったから今があります。

ドイツ語なんてできっこない、ドイツの大学で勉強できっこない

何度も鼻で笑われました。そーユー段階を経て、自分の意志はまげずに、環境を変えていって行き着いたのは、ドイツ文学者のすごい人たち、

私以上に枠が広くて、異次元だったのにものすごいびっくりしました。


また第2ステージに入りました。今度は、ドイツ文学の中から、テーマの微調整して、シュタイナーに人生をささげるです。


シュタイナーから秘密をうちあけられるまで、準備をします。