私は旅行が好きで、よく車に乗って出かけたりするんだけど、
今までいった中でだんとつに好きなのが熊野です。
本当に大好き。
一度目に行ったときに感激して、2度目行った時にさらに大好きになりました。
で、どうしてこんなに好きなのか、行く度に感動するのか自分でも不思議に思って
色々自分を掘り起こして考えてみました。
そうしてわかったのは、熊野には近所の神社もまあ、そうなんだけど、
自然を大事にして、そこに神様を見ていた昔の日本人の素朴な信仰が
(私はそれが日本人の信仰のルーツだと感じたんだけど)そのままの姿で残っている。
そこに人と自然との関わり方、つながりを見ることが出来るんですね。
それにすごく感動するんだと思う。
私は小さいころの遊び場が神社だった神社っ子です。
なので神社ってものが大好き。
なんだけど常々古事記とか日本書紀とかの神道のベースに疑問を感じていて
それが熊野にいって確信に変わりました。
だって近所の神社に行って「伊弉册尊、事解男神、速玉男神さま」とお参りはしないもん。
多分きっと近所のおじいじゃんとかおばあちゃん達も全員「この土地の神様」として
お参りしてるはずだし、私も子供のころから今までそう思ってる。
記紀は面白い読み物だけど、とっても政治的なお話で、
やっぱり人の信仰よりちょっとあっちの方向の話だと思いました。
熊野には、滝とか石とか自然を大事にし、そこに神様を見て、
それは人にとても近いところにいる神様で、そこに日々生きることが祈ることだったような
「草が草であることを知らないように」生きていた素朴な人達をリアルに感じることが出来ます。
そして私にも確実にその血は流れていることを感じて、自分のルーツを見たような気持ちになります。
神仏分離あたりの時代をよく生き延びてくれたな、となんだかじーんとしてしまいました。
(実際にはそれでも沢山壊されたそうですが。)
さてさて、ここで一つ疑問に思ったのです。
「なぜ熊野なのか?」
自然なら私の住んでいるところにだってそれこそ山のようにあります。
でも熊野のように滝を奉ったり、石を奉ったりっていうのはあんまりない。
いろんな伝承は出来上がったりしてるけど、滝は滝としてそこにあるし、石はすごい石でしかないのね。
山がご神体、みたいなのは割とあるんだけど・・・。
熊野の信仰って人ととても近くて、神様が人と同系列で存在してるのね
(っていうか時間とかも含めすべてが神様っていうか)
特別なものじゃないっていうこの感覚がない。
私達の近所の神社にちょっと寄ってお参りしたりする習慣は、
基本的に熊野の信仰の感じと同じものだと思うのに
なぜ(私が行ったことのある場所では)熊野以外で感じられないのか。
熊野で感じた感動から、自然がある所では人と自然は
ああいう関わり方が出来上がって行くのが普通なのかと思って、
色んな日本絶景ポイント(基本的に自然好きなので
)に行ったりしたんだけど、どうもそうじゃない。
なんでなのか不思議に思っていたところにこんな本を読みました。
- 「森の思想」が人類を救う―二十一世紀における日本文明の役割/梅原 猛
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この本によると、人類の歴史の99%は狩猟採集の時代で、それは縄文時代だったそう。
そこへ稲作農耕文化を持った弥生人が大陸から日本にやってくる。
弥生人に追いやられた縄文人達は近畿の一部(熊野)と東北、沖縄、北海道あたりに散らばっていったそう。
その縄文人の宗教が「自然信仰」だったそう
(さらに「循環」っていう思想もとても大事にされていたそうなんだけど、
私にはまだピンと来ないので割愛)。
読んでてこの本に書いてあることが
もうあまりにも 「これだよこれ!」って感じでもう静かな興奮状態に。
なるほどだから熊野なのか、と深く納得するとともに、
このタイミングでこの本を読むってなんなのこれって感じでした。
運命?ご縁?言葉にするとアレですがそんなものを感じてしまいました。
というわけで今は北海道や沖縄行ってみたくてしょうがない。
同じように感じられるのかな。
