眠りから目覚めたら突然、あるはずのものが無くなっていたら。例えば男性。男性器。直接的に言うと、睾丸と男根。例えば女性。女性器。ぶっちゃけ子宮。ある日突然、病院に連れていかれ、何一つ教えられることもなく薬で眠らされ、目覚めたときには既にそれらが無くなっていたら。自分が望んだのではなく、他人のエゴで手術され取り除かれていたら?『仕方ない』で貴方は済ますことが出来ますか?例え生きていられるのがその他人のお陰だったとしても。唐突に『お前にはもう自分の子は作れない』と言われたら?
だから私は、実は好きじゃありません。ペットの去勢。
『ペットはもう一人の家族です!』家族にすることか、それ?と、どうしても思ってしまいます前振り長くなり過ぎたどうも、私ですm(__)m
ハッハッハッ、いやー困った困った!!森のクマさんが言うといやークマったクマった。
・・・全然教習所行けてねぇ。
いやまぁ、今頃免許取りに行ってる私が悪いんですがね?教育実習までに取りたかったのにあれ?あれれれ?というまに時間は過ぎ、教育実習今月なのにまだ十時間以上残ってますよコノヤロー。
ヤバい、ヤバいよこれは・・・。
調子に乗ってとった授業が哲学じゃなくて日語だった上に、私以外は一年しか居ないらしいよしかも一番分かってないの自分みたいだよおいおいおい・・・・どーすんの?これどーすんの?ってくらいヤバいよ・・・
くっ、こうなったら最終奥義だ・・・
いくぜっ!必殺っ、からげんき!!!
ふっ・・・これで確実に死んだな・・・自分が。
・・・まぁ茶番はこのくらいにして、いやぁー久しぶりに日記を書きましたねぇ。
まぁアメブロでは、ですがね。最近は本拠地をmixiに移してきてるので、基本はmixiに出没してます。モバゲはもはや三人くらいの人間関係で維持、アメブロに至っては一人です。
そんな私は、今日ちょっと死にかけました。
まぁ実際のところは、私が勝手にあのままだったら死んでいたんではないかと思ってるだけなんですけども。
まぁ何故かはおいといて、とりあえず私が生きているのは、まだ死ねないと思ったからです。
では何故死ねないか。それは、私がまだ家族含め誰かに強烈な印象、思い出、エピソードを植え付けて無いからです。
私は兼ねてからずっと死に着いて考えていました。
哲学科のとあるティーチャーの話では、日本人とは歴史的に見ても『死』を重視する民族だそうです。
例えば分かりやすいのは武士です。有名な葉隠の『武士道とは死ぬことと見つけたり』という言葉の通り、常に武士は礼節と儀礼を重んじ、ことあるごとにそれを死に様にも求めます。有名なのが背中傷は恥ってやつですね。背中に傷を受けて死んだものは、敵前逃亡したからだ、っていう理由で潔くないとなります。
長くなるので例はこれだけですが、まぁつまり私が言いたいのは現在の死、あるいは死までの生とはどうあるべきか、という事です。
よくある考えが、たくさんの人に涙され、その終焉を惜しまれる『死』。
その次くらいによくある考えが、誰から見ても勝ち組な人生で終わる『死』。
まぁ、ありきたりですが確かに価値ある死かも知れません。
ですが、私個人の考えでは、どうせ人に影響できる死ならば、『あいつは死んじまったけど、生きてた頃のあいつがやらかしたエピソードがな・・・』みたいに、笑顔で語られるような、人の心に刻み付ける幾つもの記憶を作った『死』こそがベストです。
それは別に、たくさんの人である必要はありません。少数でもいいです。
例えば、大学時代に一年しか付き合いのなかった後輩が、私の死後、子供に「私が大学生だった頃、一人の先輩が・・・」って懐かしそうに語る。
例えば、死ぬ間際まで付き合いのあった友人が、新しく出来た友人に「こないだ死んだあいつがな・・・」って思い出し笑いを堪えながら。
例えば、中学生までは仲良かった先輩が、自分の部下に「実はこないだ昔の後輩が死んでな・・・」って憎らしげにかつての諍いを。
そんな風に、どんな形であれ、死した後も誰かに語って貰えるような、思い出、あるいは軌跡を刻んで死ぬのが私の理想の『死』です。
残念ながら、今の私では良くて一年覚えててもらうのが限界なので、まだまだ死ねないなぁと思う今日この頃でした。
まとめ。
ペットに『ペットの体を思うなら、〇〇が好きでも□□だけを食べさせるべき』って言うのは、人間に『健康を考えるなら、野菜嫌いでも野菜だけ食え』って言うのと同じ。じゃあお前がそう言われたら出来るのかって事だな。
だから私は、実は好きじゃありません。ペットの去勢。
『ペットはもう一人の家族です!』家族にすることか、それ?と、どうしても思ってしまいます前振り長くなり過ぎたどうも、私ですm(__)m
ハッハッハッ、いやー困った困った!!森のクマさんが言うといやークマったクマった。
・・・全然教習所行けてねぇ。
いやまぁ、今頃免許取りに行ってる私が悪いんですがね?教育実習までに取りたかったのにあれ?あれれれ?というまに時間は過ぎ、教育実習今月なのにまだ十時間以上残ってますよコノヤロー。
ヤバい、ヤバいよこれは・・・。
調子に乗ってとった授業が哲学じゃなくて日語だった上に、私以外は一年しか居ないらしいよしかも一番分かってないの自分みたいだよおいおいおい・・・・どーすんの?これどーすんの?ってくらいヤバいよ・・・
くっ、こうなったら最終奥義だ・・・
いくぜっ!必殺っ、からげんき!!!
ふっ・・・これで確実に死んだな・・・自分が。
・・・まぁ茶番はこのくらいにして、いやぁー久しぶりに日記を書きましたねぇ。
まぁアメブロでは、ですがね。最近は本拠地をmixiに移してきてるので、基本はmixiに出没してます。モバゲはもはや三人くらいの人間関係で維持、アメブロに至っては一人です。
そんな私は、今日ちょっと死にかけました。
まぁ実際のところは、私が勝手にあのままだったら死んでいたんではないかと思ってるだけなんですけども。
まぁ何故かはおいといて、とりあえず私が生きているのは、まだ死ねないと思ったからです。
では何故死ねないか。それは、私がまだ家族含め誰かに強烈な印象、思い出、エピソードを植え付けて無いからです。
私は兼ねてからずっと死に着いて考えていました。
哲学科のとあるティーチャーの話では、日本人とは歴史的に見ても『死』を重視する民族だそうです。
例えば分かりやすいのは武士です。有名な葉隠の『武士道とは死ぬことと見つけたり』という言葉の通り、常に武士は礼節と儀礼を重んじ、ことあるごとにそれを死に様にも求めます。有名なのが背中傷は恥ってやつですね。背中に傷を受けて死んだものは、敵前逃亡したからだ、っていう理由で潔くないとなります。
長くなるので例はこれだけですが、まぁつまり私が言いたいのは現在の死、あるいは死までの生とはどうあるべきか、という事です。
よくある考えが、たくさんの人に涙され、その終焉を惜しまれる『死』。
その次くらいによくある考えが、誰から見ても勝ち組な人生で終わる『死』。
まぁ、ありきたりですが確かに価値ある死かも知れません。
ですが、私個人の考えでは、どうせ人に影響できる死ならば、『あいつは死んじまったけど、生きてた頃のあいつがやらかしたエピソードがな・・・』みたいに、笑顔で語られるような、人の心に刻み付ける幾つもの記憶を作った『死』こそがベストです。
それは別に、たくさんの人である必要はありません。少数でもいいです。
例えば、大学時代に一年しか付き合いのなかった後輩が、私の死後、子供に「私が大学生だった頃、一人の先輩が・・・」って懐かしそうに語る。
例えば、死ぬ間際まで付き合いのあった友人が、新しく出来た友人に「こないだ死んだあいつがな・・・」って思い出し笑いを堪えながら。
例えば、中学生までは仲良かった先輩が、自分の部下に「実はこないだ昔の後輩が死んでな・・・」って憎らしげにかつての諍いを。
そんな風に、どんな形であれ、死した後も誰かに語って貰えるような、思い出、あるいは軌跡を刻んで死ぬのが私の理想の『死』です。
残念ながら、今の私では良くて一年覚えててもらうのが限界なので、まだまだ死ねないなぁと思う今日この頃でした。
まとめ。
ペットに『ペットの体を思うなら、〇〇が好きでも□□だけを食べさせるべき』って言うのは、人間に『健康を考えるなら、野菜嫌いでも野菜だけ食え』って言うのと同じ。じゃあお前がそう言われたら出来るのかって事だな。