ビーフカツを求め全国各地を彷徨う超変人の超マニアックなブログです。今回はスピンオフ編。ビーフカツやその他の食べ物からは離れ、これまでの国内外の旅などで印象に残っているスポットなどをご紹介します。今日は、韓国モクポ(木浦)市の『モクポ近代歴史館』をテーマにします。
モクポ市は
首都ソウルから南に約300㎞
全羅南道に属する都市で
人口は約24万人。
韓半島の
KTXホナム(湖南)線で
ソウルから最速2時間10分。
李朝朝鮮時代末期の
1897年に開港し発展した町で
かつては8000人以上の日本人が
居留していました。
また
陸上交通の要所でもあり
国道1号線及び2号線は
モクポを起点にしていました。
1号線は現在もモクポを起点としていますが
2号線は経過点となっています。
この石碑は
1号線と2号線の起点だったことを
示すものです。
『モクポ近代歴史館』は
1号館館と2号館があり
1号館は国道起点碑の裏手あります。
モクポ駅からは
徒歩15分程度。
1900年に建てられた
旧日本領事館で
日本の敗戦、撤退後は
モクポ市役所、市立図書館などとして
使われてきました。
建物へのアプローチでは
御馴染みの彼女が出迎えてくれます。
モクポ市の近代建築物の中で
最も古く規模の大きいもので
建築当時の外観を
殆どそのまま残していて
韓国の国家遺蹟に指定されています。
2014年2月
子孫が過去の歴史を繰り返さないよう
臨場感のある歴史が学べるスペースとして
開館されました。
館内の各部屋には
マントルピースが設置されるなど
西洋の意匠を取り入れた
独特な様式になっています。
洋風の階段と窓
しかし踊り場には
写真展示が
・・・これは台無しです。
2階展示室には
日本占領時代の
モクポの町のジオラマが
・・・明治時代の日本の町のようです。
こちらは
税関と各国租界の銘板。
税関の責任者はイギリス人
職員は韓国人と日本人がそれぞれ2名
中国人が1名だったそうです。
租界があったことは
知りませんでした。
日本人が使っていた人力車
壁には日本人街のイラストが
描かれています。
綿の紡車
大阪市西区のアサイ鉄工所製作
そう書かれています。
説明文によると
日本の統監府は
韓国農民に対し綿の栽培を奨励したが
農民が応じなかったため
憲兵を動員して
強制的に栽培させたとのことです。
1号館から南に200mほど歩くと
2号館があります。
1920年に
日本の国策会社『東洋拓殖株式会社』が
木浦支店として建設した建物。
日本の敗戦、撤退後は
韓国海軍モクポ警務部、憲兵隊本部などとして使用され
その後10年ほど空家として放置され
廃墟のようになっていました。
モクポ市は2006年に
内部を改装し歴史館として開館しました。
それにしても
先に開館したこちらが
何故2号館なのでしょう
・・・1号館の方が立派だから?
2号館は1号館と異なり
日本占領時代の写真資料を展示しています。
相当数の写真が展示されていますが
ブログアップするのは
如何なものかなというものが
かなりあります。
もちろん
日本政府と軍人が行った
悪行は悪行として認め
真摯に受け止めなければならないのは
重々承知していますが。
暫く悩みましたが
やはりここにはアップしないことにしました。
初代韓国統監の伊藤博文
日清戦争の勝利に伴う
日清講和条約により
朝鮮の独立を清国に認めさえたことが
功績とされていますが
後に日本が占領するための
布石でしかなかった訳ですね。
因果応報でしょうか
伊藤博文は1909年に
中国黒龍江省のハルビン駅で
朝鮮民族主義活動家の
安重根に暗殺されました。
ちなみに安重根は
韓国では英雄視されています。
日本占領時代の日本人町
モクポで最も栄えた場所だそうで
日本語の看板も見られます。
2号館の過激な展示には
眉を顰める方いらっしゃると思いますが
現在の日韓のボタンの掛け違いが
どうして生じたかを知る
ヒントになると思います。
全羅南道(チョルラナムド) 木浦市(モッポシ) 大義洞2街(デーウィドンイーガ)1-5
82-61-270-8598
全羅南道(チョルラナムド) 木浦市(モッポシ) 中央洞2街(チュンアンドンイーガ)6
82-61-270-8728
両館共に
8:00-18:00
日曜日休み
入館無料
次回は、本日15:00にオンストリート編。旅をした国々の街角の光景をご紹介します。テーマは、東京都葛飾区です。