こんにちは
息子は今日も、多少の行きしぶりはしつつも
なんとか元気に療育園へ通っています。
この頃ではすっかり穏やかキャラになり、人懐こさもあって、
親子登園日の異なる他のママさんに寄っていって、相手してもらっている様子。
本当にありがとうございます
今ここまで落ち着いているのは、息子に合った行き先に、安定して通えているおかげ。
日々の行き先が定まらなかった2歳代は、5年間の子育ての中で、最も辛い時期でした
その頃どうしていたかというと、近隣の子育て支援センター巡りをしていました。
既に療育とは繋がりがありましたが、月一回程度の療育を受けるに留まっていました。
子育て支援センターを巡っていたのは、私が他の大人と関わりたかったからです。
スタッフさんたちは、私たちの事情を知った上で、大変良くしてくださいました。
けれど、激しく多動で手当たり次第におもちゃを投げる息子だったし、
お昼を挟んでも、あたり一面に食べ物を撒き散らすような状態だったので、
周りから嫌な目で見られることや、あからさまに避けられるようなこともありました
無理にそのような場所に行かなくても…と思われるかもしれませんが、
息子は自宅がとても退屈で、ひどく家を荒らしたり、窓ガラスを蹴ったりしました。
人気の少ない公園の片隅で、自販機やスロープや溝に執着する息子を、ひっそりと見守りました。
呼んでも振り返ることもなく、抱き上げても反り返って嫌がり、ママへの愛情というものは一切感じることが出来ませんでした
ひとりのママ友も頼れる身内もなく、どれだけ寂しかったか…思い出すと泣けますね。
その日その日を生きることが辛くて辛くて、この世で一番不幸だと思っていました。
今から振り返っても、その当時の私の地域においては、2歳代はじめから頻度高く、本格的な療育に繋がることは難しかったと思います。(地域の療育事情によるので、私たちの場合です)
そうであれば乳幼児の一時預かりに、もっと多く預ければ良かったのかな?とも思うけれど
他害の部分で、人に預け集団に入れることが
とても不安だったのも事実です
いずれにせよ本人が落ち着くまでは、ある程度時間も必要だったと思うし、
私はその時期を精一杯、生きながらえてきたのだという自負はあります。
ただ、出来ることなら昔の自分に教えてあげたかったです。
3才で、居場所が見つかるよ。(児童発達支援)
4才で、ママと呼んでくれるよ。
5才で、手繋ぎで歩けるようになるよ。
…と。
私が息子を可愛いと思えるようになったのは
4才になってからです。
長い間、辛い辛いと思って育てました。
今は宝物だと思えるようになったけれど。
ただの空想ですが、もしスゴロクみたいに
「2歳に戻る!」マス目が出たとしたら
慌てふためくのは間違いありません
その頃から、およそ倍の年月をかけて、嘘のように穏やかな現在があります
ただそれは、普通の5才とは程遠いもの。もはや普通が何なのかすら分からないけれど。
わずかに出てきた発語をほめたたえ、それに伴って出てきた意味不明な発声を、ほどほどに聞き流す。
街を歩けば、やはり溝ごとに一時停止するのを、当たり前のように待ってあげる。
オムツ交換も着替えも歯磨きも、身辺のことは基本ママがやってあげていて、余裕があれば自分でやるように促すくらいの生活。
ありとあらゆる手料理を食べず、パンとこだわりのクリームを要求され、
圧力鍋で作ったホロホロの角煮さえ、追加クリームと引き換えに、ほんのひとかけらを食べさせるのがやっと。しかも超まずそうに!
こんな毎日を送っているのに(当社比で)いい子になったと喜び、受け入れ先のある日々に感謝しながら暮らしています。
定型発達の5才がどんな様子かなんて、分からないし、あえて知らないままでいいかなと。
私の息子は、そっくりな顔のこの子だけ。
ただただ、育ててゆくしかありません。
トイトレ完了まで、あと何年か?
偏食がなおるまで、あと何年か?
まだまだかかるとは思いますが、あまり無理しなくても、そのうち叶う気がします。
何年かかるか分からないミッションに、自分がつぶれてしまわないように、
決して無理をせず、慌てることもなく、
まずは息子が元気で笑っていること。
次に、私が息子を好きでいられること。
これらを大切に、ゆるく、愛情深く、
育ててゆきたいと思います