*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

8.



何を期待しているわけでもないけど…
一応のエチケットとして、
僕はアパートに帰ってシャワーを浴びた。
なるべく新しい下着を身に着け、
髪をセットし、髭も剃った。


「ジョイア…名前だけは聞いたことがある」


チョン代表に指定されたイタリアンの店…
たしか有名なシェフがいる高級店だ。


「って、ことは…ジャケット必須だね」


僕は唯一持っているハイブランドのセットアップを選んだ。
インナーは白のTシャツで。
チョン代表より格下のカンジを出す。
本来、僕はオシャレとか興味はない。
仕事柄、色んな「役柄」を演じなくてはならないから…
学生っぽいのからエリートサラリーマン、
遊び人風や休日のパパ風まで…
そこそこのワードローブは揃えてある。
言っとくけど衣装は自前だよ。
詐欺師じゃないから、コスプレっぽくならないようには気を付けてる。


「よし、これでいい」


今日はただの打ち合わせだ。
それなのに…


「なにを張り切ってんだ?チャンミン」


狭い玄関にある鏡に映った自分を見て、
僕は自虐的に呟いた──



「お待ちしておりました。シム・チャンミン様ですね。
チョン様がお席でお待ちです」


店に着くと、すでにチョン代表が待っていた。
僕だって相当早く来たはずなのに、
チョン代表って几帳面なのかな…


「すみません。お待たせしました」


案内されたのは個室だった。
僕の心臓はまたドクンとなった。
甘いときめきが再び僕を襲う。
チョン代表は昼間のスーツにネクタイではなく、
グレー系のチェックのジャケットに、
胸元の開いたシャツ、長い脚にスリムなパンツ。
首元に光るネックレスがライトに反射して…
僕はまぶしくて思わず俯いた。
クラシックな調度品と真っ白なテーブルクロス。
大人っぽい雰囲気に吞まれそう…


「いや、俺もさっききたところ。
なにか飲む?ワインでいい?」


「あ…」


僕は一瞬、躊躇した。
こんないい雰囲気の中で…
チョン代表の誘いを断るなんて無理。
断れば場がしらけてしまう。
でも、いまは…


「すみません。せっかくですが…
お食事に誘っていただいてうれしいです。
でも、これは打ち合わせの場ということでもありますし…」


顔を上げ、僕はちらりとチョン代表の表情を窺った。
ワインリストを手にしたチョン代表は真顔になって…


「あの…なにか?」


僕は少し動揺していた。
いままでの仕事は、社長が僕に割り当てたもので…
そこに自分の意志なんてほとんどなかった。
社長には全幅の信頼を寄せていたし、
やりたくなかったと後悔した仕事も一度もなかった。
だけど、今回は…
僕に任せると社長は言った。
それは、渋る社長を僕が押し切ったからだ。
社長は、


「まだ断ることは可能だ。
でも、お互い誓約書にサインしたら…
もう引き返せない。
途中でやめると違約金が発生する。
ビジネスとしてやり切ることができるか?
しっかり見極めろよ」


僕にそう釘を刺した。
僕を見定めるようなチョン代表の目…
三日で1000万Wを超える大きな仕事だ。
僕自身のプライドに懸けても…逃したくないと思った。


「いや…」


「険しい顔をしてらっしゃるので…
なにか僕に不都合なところでも?」


チョン代表がアーモンド形の黒い瞳を、
ゆっくりと細めて目元を緩ませた。


「不都合なんてないよ。
いや、君は…実に真面目で誠実で…
頭の良い子なんだろうと思ってね」


チョン代表からの予想外な言葉に、
僕は耳を疑った。


「えっ…僕が…ですか?
僕はまだ…チョン代表と会うのも今日が初めてでしたし、
特になにか話をしたわけでもありません。
なのに、どうしてそんなことを仰るのかわかりませんが…」


僕が真面目?誠実?
大学を中退し、ホストにまで身を持ち崩した僕が?
そして…自分のマイノリティも隠して…
仕事とはいえ嘘をつき、世間を欺いている僕のどこが誠実だって?
僕はちょっとムッとした。
知ったようなことを言われるのは嫌いなんだ。


「まあ、そうムキにならなくても」


大人の余裕がまた鼻につく。
チョン代表はウェイターを呼び、
リストを見ながら何かを注文した。
憮然としている僕は、自分がまだまだ子供だってことを…
あとから思い知らされることになる。