*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

《かけがえのないもの》



ユンホの父は、その娘を家に上げた。
それまで女人にときめいたことなどなかったが、
なぜか胸の高まりが止まらなかった。
卑しい下心など持ち合わせていなかった。
ただ…震える少女を放ってはおけなかった。
安全な場所に連れて行き、囲炉裏の火で温めてやりたいと思った。


「さあ、入って」


娘は何も言わず、俯いて敷居をまたいだ。
囲炉裏の傍に座らせ、乾いた布で濡れた体を拭くように言った。


「これは…私の亡き母の形見で、
若いそなたには少し地味かもしれないけれど…
よかったら着てみるといい。
衣が濡れたままでは風邪を引いてしまう」


ユンホの父が渡したのは、
若い娘には少し不似合いな梅鼠色の衣だった。
娘の表情が一瞬和らいだ。


「あ、そうだな。私がいては着替えもできぬな。
なにか温まるものを持ってこよう」


透き通る白い肌…腰まである長い黒髪は高貴な匂いがした。
娘の姿を思い浮かべると、息が止まりそうになる。
邪念を振り払いながら、ユンホの父は温かい葛湯を供した。
娘はすぐには口をつけず、十分に冷まして口に運んだ。


「葛湯とは熱いものを飲むのが体にいいのだが…
そなたは猫舌なのだね。ははは」


気が付くと笑顔になっている自分に驚いた。
夢を断たれ、ますます人嫌いになり…
まだ年若いというのに、こうして山で孤独に厭世を気取っている。
一人で暮らすようになって…
ユンホの父は初めて声に出して笑った。
そんな自分に戸惑いを隠せないでいると、
娘が不思議そうに顔を覗き込んだ。


「もし、良ければ…そなたの名を教えてくれぬか?
私は…ユンジンだ。ここで一人、暮らしている」


娘は少し躊躇う仕草を見せた。
よく見ると、その肌はまことに白く…
初雪のように清らかだった。
これ以上、囲炉裏に近づけば溶けてなくなってしまう雪の結晶…
そんな風情がなんとも物悲しく、美しかった。


「いや、いいのだ。言いたくなければ…
すっかり日も暮れてしまった。
女ひとり、夜の山を歩くのは危ない。
どういうわけでここに居たのかはわからないが…
明日の朝、安全なところまで送ろう。
こんなあばら屋で悪いが、野宿よりはいいと思って。
私は此処で寝るから、奥の部屋に布団を敷いておくよ」


そう言ってユンホの父が立ち上がろうとした時…
白魚のような細い指が、腕を掴んだ。
驚いて娘を見ると、雪のような白い頬が桜色に染まっている。


「シュナ…」


消え入りそうなか細い声で娘が言った。
ユンホの父は娘の手を握り、跪いた。


「シュナ…良い名だ。
里のほうから山へ逃げて来たのか?
里は川が氾濫し、洪水で多くの家々が流されていると聞いた。
そなたは…避難する途中、家族とはぐれてしまったのか?」


シュナは小さく首を横に振った。


「わけは聞かずに…
ここに置いてください。
私は…貴方様のそばにいたい。
貴方様が好きです…」


そう言って、ユンホの父の首に白い腕を回し…
大胆にも唇を重ねた。


「!!」


まだ年端もいかぬ乙女が、
体を密着させてきたものだから、ユンホの父は驚いて体を捩った。
だが、思いのほか強い力で抱きしめられ、体の自由が利かない。
シュナの熱い接吻で、体の力が抜けていく…
そのうち、自分も本能的にシュナに惹かれていることに抗えなくなり…
ユンホの父とシュナは結ばれた──



「その少女が…私の母上なのですね?」


「シュナは…まだ若く、少女のような面影を湛えていた。
だが、私に抱かれるシュナの姿や表情は妖艶で…
時には瞳が妖しい赤い光を宿しているようにも見えて、
私はシュナを愛さずにはいられなかった。
こんな話を…生涯、ユンホに聞かせるつもりはなかったのだが…」


「いえ…私は父上が話して下さってうれしいのです。
私も…この国では禁じられている愛に身を焦がしているのですから」


ユンホとチャンミンは視線を交わし、
繋いだ指をそっと絡めた。


「長い雨がやみ、やがて雨は雪に変わった。
山の冬は格別に寒い。シュナは寒さに弱く、囲炉裏の傍を離れなかった。
そんなシュナを私は自分の体温で暖めたりもしたよ。
シュナを愛し、溺れ、誰よりも大切だと思った。
たった一人で暮らすより、シュナと一緒の日々は本当に楽しかった。
そして、間もなく…シュナはユンホを身籠った」


身籠ったシュナの腹はみるみるうちに大きくなった。
雪解け水が野を潤し、野山が桜色に染まる頃…
シュナは瞬く間にユンホを出産した。
あまりにも妊娠期間が短く、そして出産はシュナひとりでやり遂げた。
人間ならば十月十日で出産に至ると言うが、
シュナの妊娠が分かってたったふた月で出産したことは、
ユンホの父にとって大きな謎だった。


「私は山の炭焼き小屋でお産をします。
ひとりで大丈夫ですから、旦那様はここで待っていてください」


「だが、初産ではないか?!たったひとりで産むなど…
もし、そなたや赤子になにかあったらどうするのだ?!」


「大丈夫です。ですが…お産のあと、三月ほどはゆっくり休ませて下さい。
しっかり休んで体がもとに戻ったら…赤子を連れて戻ってまいります」


その言葉の通り…桜の季節が終わり、山々に緑が溢れる頃…
シュナはまるまるとした、
玉のような男の子を抱いて戻って来た。