*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

《恋人たち》



何の考えもないはずはなかった。
だが…いまは何も考えたくなかった。
チャンミンの手を繋ぎ、
月明りもない山道を自分の勘を頼りに歩いていく。
足元に絡みつく道草を払いながら進む感覚は、
これまでの重いしがらみを捨てて行く事に似ている気がした。


「チャンミン、寒くない?」


「ちっとも」


白い歯を見せて笑うチャンミンは、
屈託ない少年のような面差しだった。
女官の衣服を脱ぎ捨てたチャンミンは、
徐々に龍族の王子の風格を取り戻しつつあった。


「でも…ひとつだけ心残りが…」


「なに?」


「良くしてくれたユジンねえさんとヤンさんに…
礼と別れの挨拶が出来なかった。それと…」


「ははっ。まだあるの?」


「オシドリの刺繍…王女の花嫁衣装にと刺した刺繍だ。
刺繍などしたこともないのに、どうしたことかとても上手く出来た。
ユンホを探すため、私は人間界に転生した。
なぜ、宮殿務めの女官なのかと絶望したこともあったけれど…
ユンホに再会するためだったのだと思えば、納得できる。
あの刺繍は…私が人間界で生きていく覚悟をするきっかけになった。
ユンホとの新しい始まり…
愛しくて貴いものなのだ。どうにかして持ち出せばよかった」


悔しげに眉を顰めるチャンミン。
そんな素振りが可愛くて、ユンホはそっと髪を撫でた。


「うん…でも…刺繍はまた刺せばいいよ。
きっと、チャンミンの手は覚えているはずだから。
港から船に乗り、海を渡ろう。
どこか知らない国へ行って…
私は貧しい人々の病を治し、チャンミンは美しい刺繍をして暮らす。
二人で一からやり直そう」


「ユンホ…」


二人は気持ちを確かめ合うように、
熱く唇を重ねた…


「ほら、もうすぐだ。
あそこに見える小さな光が私の家だ」


「急ごう!」


暗闇の中、丘を駆け下りる。
チソンアが「きゅん」と鳴き、
暗い草原を道案内してくれる。



「父上、父上!」


「ユンホではないか!
そなたは…女官のチャンミン?」


ユンホの父は驚いた様子で囲炉裏端から立ち上がった。


「父上、時間が無いのです。
これから私たちは二つ山を越え、港まで行きます。
港から船に乗り、かの国へ行くつもりです。
父上も一緒に行きましょう!」


「ユ、ユンホ?!そなたたちは…宮殿から逃げて来たのか?」


戸惑い、狼狽えるユンホの父に、
ユンホはひとまず腰を下ろしてこれまでの経緯を話した。
となりではチャンミンが穏やかな佇まいで静かに頷いていた。


「父上、このような事態になり…
息子として親不孝をしていると心が痛みます。
ですが…私はもう戻れません。
王女様には申し訳ないと思っています。
不実な男だと罵られても受け止めます。
一国の王女様と婚約しながら、裏切ってしまったのですから」


ユンホの父は背中を向け、黙って聞いていた。


「では…そなたは…龍族の王子と恋に落ちたと?
湖底の世界に誘われ、王子と来世を誓ったというのか?」


ようやく口を開いたユンホの父は、
絞り出すように言葉を投げかけた。


「はい。チャンミン王子は私を追い、人間界に転生してきたのです。
偶然、宮殿の女官となって…私の前に現れました。
ですが、私は…記憶を消されてしまってチャンミンを忘れていました。
それなのに…愛し合った記憶が消えているにも関わらず、
私はチャンミンと再び恋に落ちました。
これを宿命と言わずに、なんと言うのでしょうか?
私もチャンミンも…
どんな身分でも、男でも女でも、人間でも異界の者でも…
魂で結ばれているのなら、それは真実の愛であると。
だから、貫きたいのです!もうけっして離れたくないのです!」


「チャンミン王子も…ユンホと同じ気持ちなのでしょうか?」


振り向き、ユンホの父はチャンミンに問いかけた。


「私も同じ気持ちだ。
もう二度とユンホと離れ離れになるのは厭なのだ!」


「あなたは…龍王様のお子ですね?
ならば、逃げたりせずに魔力でユンホを奪えばよいではないですか?」


「それは…私は人間界に転生し、魔力を失ってしまった。
失うというより…使えなくなってしまったというべきか…」


ユンホの父は目を潤ませ、


「そうしてまでも…ユンホを好いて下さるのですか?
やはり…血は争えないということを…身に沁みて感じております」


「父上、それはいったい…」


父は泣いていた。
その時、ユンホは初めて父の涙を見た気がした。