*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

《春日和》



晴れた空に春霞がゆったりとたなびいている。
清らかな朝の光が眩しい、「遠足」にはぴったりの日和となった。


「では、トウヤ先生。いってまいります」


「うむ。くれぐれも…王子様を頼んだぞ。
もし、何かあればいつでも駆け付ける準備はしておくから」


ユンホは力強く頷いた。
裏門にはクン王子を乗せた輿が出発の時を待っている。
その横には…
女官の制服ではなく、町の娘の衣を身に着けたチャンミンが控えていた。


「あの子が…井戸に落ちて記憶を失くしたという女官だな。
クン王子様がたいそう気に入られ、東の宮で仕えているとか」


「はい。チャンミンは…やさしく穏やかで賢い娘です。
複雑な事情があるらしく、憂いを秘めた表情をしていて…
王子様はそんなチャンミンと心が通ずるところがあるようです」


「そうか…クン王子様は繊細でいらっしゃるからなぁ。
まるで早逝することが運命だとわかっていらっしゃるかのように…
幼い頃から利発で、不思議な雰囲気をお持ちだから。
チャンミンという女官と気が合われたのだろう」


輿の小窓が開き、クンが中からユンホに視線を送った。


「あ、もう行かなくては。
王子様が早く行こうと催促されております」


「ははは。ユンホもすっかり王子様の侍医となったな。
しっかり頼んだぞ」


「はい!いってまいります!」


王子とチャンミンの側に駆けていくユンホの背中は、
少年のように弾んでいた。
チャンミンはトウヤに一礼し、ユンホのあとを静かに歩いていく。


「王子様…楽しい時間をお過ごしなさいませ」


クンが生まれてからずっと、侍医として見守り続けてきた。
救う手立てがないとは思いたくない。
だが…現実は厳しく、クン自身がそれを受け容れていた。
せめて、自分が出来ることは…
子供らしい望みを叶えてやること。
苦しまず、穏やかな心のまま旅立たせることだけだった。
クンの輿を見送りながら、
トウヤは深々と頭を下げた──


「ユンホ、今日はどこへ連れて行ってくれるの?」


「空気と景色のきれいなところでございますよ」


「どこだろう?海?」


「ふふっ。そんな遠くへは行けません」


「えーっ。どこだろう?チャンミンは知っているの?」


ユンホから数歩離れて歩くチャンミンは、
大きな瞳を瞬かせて首を横に振った。


「私は…存じません。ただ、ついてこいと仰るので…」


チャンミンは本当に知らなかった。
行先など、どこでもよかった。
クンとユンホと一緒に…宮殿の外の空気に触れられるのならば。


「王子様、チャンミンも知らないのです。
実は…私の住まいがある里山へお連れしたいと思いまして…
今頃は雪解け水が小川を流れ、菜の花畑が満開の時期かと」


「ユンホの実家があるの?行ってみたい!
ねえ、チャンミンもそう思うでしょう?!」


「は、はい…」


ユンホの住まい…「実家」と聞いて、チャンミンの心臓が跳ねた。
ユンホは病の父と二人きりだったはずだ。
父を心配するあまり、人間界へ帰りたいと言った。
愛し合っていた自分を残し…
二度と湖へは戻ってこなかった。
それもこれも、自業自得と言われればそうなのだが…
あまりにも因縁のある場所へ向かうことに、足が竦んだ。


「チャンミン、大丈夫?
ここから半時も歩けば着くのだが…」


「だ、大丈夫…です。宮殿から出ることがほとんどないので…
外の騒がしさに少し疲れたのかもしれません」


「そう?よし、その重そうな籠を持ってあげよう。
なにか大事なものが入っているのかな?」


「いえ、あの…あっ!」


そう言って、ユンホはチャンミンが手に持った籠を奪い取った。


「うん…わりとずっしりとして重いね。
女の細腕にこの重さは堪えるだろう。はははっ」


「あ…あ…」


籠の中身は…オコジョのチソンアだった。
チソンアがどうしても一緒に行きたいと頼むから、
チャンミンは仕方なく籠にいれて連れて来たのだ。


《チソンア、大人しくしているんだぞ》


《わかってますよ。チャンミン様!
ユンホさんの腕の中、なかなか居心地がいいですよ!ふふ》


呑気なことを言うチソンアにチャンミンは呆れてため息を吐いた。
そんなチャンミンを見て、ユンホはうれしそうに笑った。


「外で見るチャンミンは生き生きとしているね。
そのほうがいい。表情が豊かなチャンミンがいいよ」


ようやく芽吹いた緑の若葉が風に揺れている。
チャンミンは、明るい陽光の中で微笑むユンホの笑顔に見惚れた。
そんな二人の姿を見たクンもうれしそうだ。
躊躇いも恐れも捨てて…
限られたこの時を愉しもうと思うチャンミンだった。