*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

《変化》




どこをどう走ったのか…
チャンミンは夢中で東の宮の中を駆け抜けた。
やっと見えた厨に駆け込み、
水瓶のそばに倒れこんだ。


「おや、チャンミン!どうしたっていうんだい?
王子様のお茶は?今日は医官の方も見えてるって…」


恰幅のいい中年の下女がチャンミンの顔を覗きんだ。
息の荒いチャンミンを見ると、慌てて柄杓に水を汲んで差し出した。


「まあまあ、汗もびっしょりで…
ほら、まず水をお飲みよ」


「ヤンさん…」


下女の名は「ヤン」という。
東の宮でクン王子や召使いたちの食事を作っている。
女官の先輩、ユジンの叔母でもあるヤンは、
西の宮から東の宮に移ってきたチャンミンに、
何かと親切にしてくれていた。
チャンミンはヤンから柄杓を受け取り、
一気に水を飲み干した。


「何かあったのかい?あれ、まあ…
お茶の道具が割れてるじゃないか。
落しちまったのかい?」


チャンミンは胸を押さえ黙って頷いた。


「割れてしまったものは仕方ないね。
王子様はこれぐらいのことで怒ったりしないだろ?
あの方はまだ幼いのに寛大だよ。
なのに、どうしてそんなに慌てて…」


「もう…大丈夫です。すみません。
気分が良くなくて…」


「それはいけないね!チャンミンは休んでおきな。
お茶は別の女官様にお願いしておくから。
やっぱり…その様子じゃ宮殿のお務めはきついんじゃないかい?
ユジンも心配していたよ。
あたしもチャンミンのことはユジンに頼まれてるからね。
ユジンの大事な妹分のあんたに何かあったら…」


「すみません…ご心配かけて。大丈夫です。
ちょっと外で風に当たってきます…」


チャンミンはふらふらと裏口から厨を出ると、
大きな栗の木の下に腰を下ろした。
膝を抱え、噛みしめるように出来事を振り返った。


《夢ではないな?あれは…ほんとうにユンホだったのだな?!》


豊かな黒髪と同じ黒曜石の美しい瞳がやさしく微笑んでいた。
豊潤な唇から白い歯がこぼれ、耳元で低く甘い声が響いた…


「ユンホ…」


その名を何度も呼んだ。
その体の温もりを何度も求めた。
夢にまでみた最愛の男が…目の前にいた。


「ユンホ…会えた…会えたのだな…」


ユンホは…やはりチャンミンを覚えていなかった。
期待はしていなかった。
覚悟はしていたけれど…いまになって寂しさがこみ上げてくる。
ユンホと再会できたなら、言いたいことが山ほどあった。
その広い胸に飛び込んで口づけたかった。
なのに…


「あまりにも突然で…どうしていいのかわからなかった」


自分はすっかり人間界に染まってしまったのだろうか?
龍族の王子としての烈しさは消えてしまったのか?
少なくとも、人間の少女としてこの世界に生きるチャンミンは…
すっかり弱くなってしまった。
あの暖かい月の夜、出会った少年はこの国のクン王子で…
まだ幼く見えるのに、大人びた佇まいに驚いた。
女官のくせに王子の名を知らないチャンミンに、
クンは興味を持ったようだった。
そして、何とはなしに互いの身の上話をするうちに…
すっかりクンに気に入られたチャンミンは、
シュリ王女のいる西の宮から、
クン王子の住まいである東の宮の女官として働くことになった。


「まさか…ここでユンホに会えるとは!」


うれし涙を流す代わりに、
チャンミンは自分の体を思いきり抱きしめた。
クンのそばに居れば、またユンホに会えるかもしれない。
素性を明かすことはできないが、
ただユンホに会えることだけが唯一の希望だった。


「名乗れなくてもいい。
たとえ王女との婚礼までだとしても…
ユンホに会えるのなら…うれしい」


烈しく情熱の恋に身を焦がした日々が嘘のように…
ひっそりと、恋人を照らす月の如くユンホを思うチャンミンだった。


「さあ、戻って仕事をしなくては。
ユンホはもう帰ってしまったかしら…」


立ち上がり、チマの裾に着いた草を払った時


ガサッ、ガサガサッ──


と…草むらが揺れた。
チャンミンが思わず


「誰?誰かいるの?!」


草むらに向かって声をかけると…
一匹の白い小さな動物が現れた。


「お、おまえは…チソンア?!」


黒いつぶらな瞳が、チャンミンに微笑んでいるように見えた。