*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

《翡翠の記憶》



ユンホは…
考えあぐねていた。
シュリ王女は、気は強いが真っすぐで純粋な心根を持つ。
愛馬の「白夜」をいとおしむ姿も…
王女が弱き者への温かい眼差しを持っている証拠だ。
王女を嫌うところはひとつもなかった。
それどころか、世間の人々からすれば身に余る名誉な婚姻話だ。
同じ医学館に通う学生、若い貴族の男子はユンホを羨むだろう。
だが、いま…病身の父を置いて婚姻する気にはなれなかった。


「ユンホ」


トウヤが帰ったあと、ユンホは久しぶりに父と向かい合った。
たった三日ほど家を空けただけなのに…
父はまたいっそう痩せてやつれたように見えた。


「私のせいなのですね。
父上を心配させてしまったから…
もう幾月も会っていないような、そんなやつれ方をされてしまって」


父は薄く笑って、首を横に振った。


「そうではない。親が子を心配するのは当然だろう?
それぐらいのことで、やつれたりはしないよ。
何よりもそなたが無事で本当にうれしいのだよ。
それよりも…王女様へのお返事はどうするのだ?
待つと仰ったというが、
それほど長くはお待たせすることもできまい」


「そうなのですが…」


俯くユンホの肩を、
父はやさしく擦りながら


「私の事が、ユンホの決断を鈍らせているのだとしたら…
私はいますぐユンホの目から姿を消そう」


「父上!何を言い出すのですか!!
父上と私は、いつも二人で手を携えて生きてきたではありませんか。
姿を消すなどと不吉なことは言わないでください!!」


ユンホは全身で父の言葉に抵抗した。
痩せた肩を撫でながら、
父は幼い頃からユンホの背負ってきた宿命の重さに涙した。


「すまない、ユンホ…」


「父上…とにかく、私は…
父上の病が治るまではこの家を離れません!
邪魔だと言われても…父上のそばにおります」


そう言って、ユンホは涙に滲んだ瞳を細めた。


「偕王様やシュリ王女様には、きちんとお話します。
長らくお待たせしてしまうかもしれないと。
そうしたら…王女様は私とは婚姻しないと仰るかもしれません」


「ユンホはそれでもよいのか?」


「当り前です。身に余るほどの光栄なお話ですが…
私のような者には勿体ないお話ですから。
偕の国は広いのです。
きっと、この国のどこかに…
私なんかより、王女様に相応しい殿方がおられるはずです」


ユンホは黒い瞳を細め、父の手をとってにっこりと微笑んだ。
その笑顔につられ、父もやっと表情を緩めた。


「そうだ、ユンホ…
そなたが山で倒れていた時、手に握っていたものがあったのだ」


父は立ち上がり、奥の部屋から大事そうに何かを持ってきた。


「これなのだが…」


「これは…」


縮緬の布の包みを開くと、そこには翡翠で作られた小さな箱があった。
ユンホは不思議な心もちでその小箱を見つめた。


「これは高価な翡翠で作られた小箱だ。
ほら、表面に美しい模様が彫られていて…
これは『龍』と呼ばれる伝説の生き物ではないだろうか?
異国では王が身に着けるものすべてに『龍』が施されていると聞く。
中身は見ていないが、ユンホの持ち物ではあり得ない気がしているのだが」


父は、ユンホの掌にそっと小箱を乗せた。
ずっしりと重く、ひんやりと冷たい翡翠の箱──
ユンホはその翡翠の箱に、なぜか懐かしさを感じた。
だが…


「いいえ。私はこのような高価なものは持っておりません。
どうして私が持っていたのでしょう?」


「中身を見てみてはどうだ?」


父に促され、小箱の蓋をそっと開けると…
中には赤い細微な粉が入っていた。
いや、赤というよりは朱に近いものだった…


「なんと鮮やかな…ですが、不思議に哀しげな色なのでしょう」


「うむ。私もこのような不思議な色は初めて見た。
美しい…美しい真朱色だ…」


「真朱…」


懐かしさを覚える翡翠の箱と美しい真朱色の粉…
ユンホは胸の奥が騒いだ。
なぜ、自分がこのような高価なものを手にしていたのか?
誰かにもらったものか?
そんな覚えはまったくなかった。
翡翠の小箱を手の中で握りしめれば、
不思議と心が落ち着いた。
そして、高鳴っていく胸の鼓動を…
抑えきれずに戸惑うユンホだった。


それから数日ののち──
ユンホはすっかり回復し、久しぶりに宮殿へと出仕した。
久しぶりに会った学友たちは、ユンホの出仕を歓迎してくれた。
自分の居場所がある喜びをユンホは噛みしめていた。


「トウヤ先生、これを見ていただけますか?」


トウヤにユンホが差し出したのは…
父に渡された翡翠の小箱だった。