*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10.




それは、たしかに聞き覚えのある…
甘く響く低い声だった。
なるべく客の顔を見ないようにと、
特に金持ちに花を届ける時は注意してきた。
それがチャンミンが身につけた「自分を守る術」だった。
なのに…


「たしかに花束をお届けしました。では…」


俯いたまま、声を掛けた部屋の主の顔を見ようともせず、
チャンミンはその場を去ろうとした。


「待って!」


走って逃げようとするチャンミンの腕を掴み、
揉み合って被っていたキャスケットが脱げ、
金色の長い髪が零れ落ちた。


「やっぱり…チャンミンじゃないか」


「フィリップ…さま…」


まさか、こんなところで再び出会うとは…
チャンミンは体中の力が抜け、廊下にへたり込んだ。


「こんなところでチャンミンに会えるなんて!
まさに神のご加護だ!私がどんなに君を探したか…
君に会いたくて、どれほど苦しんだか。
はあ…こんなところで立ち話もなんだから…
部屋で話そう。いいだろう?」


「いえ、困ります。僕は…失礼します。あっ…!」


チャンミンは腰が抜けてすぐには立ちあがることができなかった。
部屋の主はチャンミンを軽々と横抱きにし、部屋へと連れて入った。


「あら、フィリップ。どちら様?」


部屋には100本のバラの花束を抱えた女性が立っていた。
若く、赤いバラが良く似合う美しい女性だった。


「ああ、エレン。私の知り合いだよ。
すまないが…下のラウンジでお茶でも飲んできてくれないか?」


「エレン」と呼ばれた女性は、不思議そうに小首を傾げた。
だが、すぐに意図をくみ取ったようで


「わかったわ。でも、この〝借り〟は高くつくわよ?ふふ」


「ああ、なんでも…欲しいものは何でも買ってあげるよ」


エレンは嬉々としてフィリップの頬にキスをした。
「ごゆっくり」
そう言うと、羽飾りのついた帽子を被って部屋を後にした。


「あの…」


「ああ、そうだったね。さあ、ここに座って」


フィリップは横抱きにしたチャンミンをソファーに下ろした。
最上階のペントハウスは身分の高い、そして富裕層だけが契約できる特別な部屋だ。
部屋の設えが桁違いに豪華で、チャンミンは目を丸くした。
フィリップは慣れた手つきでコーヒーを淹れ、
チャンミンの前に運んだ。


「本当に…久しぶりだね」


「…すみません。勝手に飛び出したりして…」


フィリップは貴族の血を引く、国内最大の海運会社の跡取り息子だ。
チャンミンよりもさらに背が高く、ヨットや乗馬で鍛えた体躯が逞しい。
栗色の髪にブルーの瞳、整った顔の造作が貴族の気品を感じさせる。
右手の大きなサファイアが嵌め込まれた指輪が、
フィリップと過ごした日々の記憶をよみがえらせる。


「チャンミン…」


フィリップがチャンミンの頬に手を伸ばすと、
チャンミンはぎゅっと目を瞑って体を強張らせた。


「ふっ…安心しなさい。何もしないから」


目を開けたチャンミンの前に、
悲しげな青い瞳を揺らすフィリップがいた。


「すみません…」


「美しい金色の長い髪…切らずにそのままいてくれたんだね。
ああ…その美しい澄んだ緑色の瞳も…あの頃のままだ」


フィリップはチャンミンを見て、愛おしそうに目を細めた。


「謝らないでいい。怒ってなどいないよ」


「でも、5年前…僕は…
貴方の…貴方の好意を無にしました。
貴族様の貴方なら、僕を探し出して殺すことも出来たはず。
僕は必死で逃げました。このままではいけない、と。
貴方の愛が…怖かったから」


「たしかに…私は君を愛しすぎていた。
君を自分だけのものにしようと、死に物狂いだった。
あの時の私は…君への愛に狂っていたのかもしれないね。
君を切り刻み、自分の血と肉にしたいと思ったほど…
チャンミン、君を愛していた…」


フィリップはコーヒーカップを口に運び、
青ざめたチャンミンに美しい笑顔で微笑んだ──




5年前、中等学校を卒業したチャンミンは、
それまで暮らしていた聖テレサの家を出て独立した。
当時、世の中への反発心が強かったチャンミンは、
進学を勧めるシスターの声にも背を向け、
自分の力で自由を手に入れようと藻掻いていた。
シスターの紹介で就職した工場は上司と折り合いが悪く、
すぐに辞めてしまった。
次の仕事など、すぐに見つかると高を括っていたが…
世間の風はチャンミンに冷たかった。
聖テレサの家には意地でも帰らないと決めていた。
あの温かさに甘えたくなかった。もう…戻れない。
職を失い、橋の下で物乞いのような暮らしをした。
ある時、空腹のあまり意識が混濁し倒れたチャンミンは、
通りかかった貴族の車に轢かれそうになった。
その車の持ち主こそが…フィリップだった。
気がつくとそこはフィリップの屋敷で、
チャンミンはふかふかのベッドの上に寝かされていた。


「あの…僕は…」


「気がついた?ここは私の屋敷だ。
君を車で轢いてしまったかと思ったが…
医者に診せたところ、そうではなかったようだ。
栄養状態が著しく悪い、栄養失調だと医者は言っていた。
腹を押さえ、胃の中はおそらく空っぽだろうとも言っていたよ。
とにかく意識が戻ってよかった。
私の車で運転手が事故を起こしたとなると、寝覚めがよくないからね」


「すみま…せんでした。
もう大丈夫です。帰ります。うっ…!」


ベッドから起き上がろうとした時、
チャンミンは肩に強烈な痛みを感じて蹲った。


「つっ…」


「大丈夫じゃ…なさそうだな。
肩を打撲しているようだと医者も言っていた。
倒れた時、肩を強く打ちつけたんだろうと。
腫れもあるし、痛くて動かせないんじゃないか?
誰か、この子に何か食事を持ってきてくれ」


命じられたメイドは淑やかに頭を下げ、部屋を出て行った。


「あの…ここはどこですか?貴方はいったい…」


「ここはドリーヒルズにある私の屋敷だ」


「ドリーヒルズ…あのお金持ちの街…」


「そして、私の名は…フィリップ。君は?」


「チャンミン…」


こうしてチャンミンとフィリップの関係は始まった。
フィリップは、怪我が治るまで屋敷で静養するようにと言った。
チャンミンは恐縮したが、行く宛てもなく仕事もない。
生活苦に追い込まれていたチャンミンに、
フィリップの申し出を断る気力はもうなかった。
肩の打撲は二週間ほどで完治したが、
屋敷を去るというチャンミンを、フィリップは引き留めた。
一日三度の豪華な食事を提供され、最高級のベッドで眠る。
美しい衣服を着て、時にはフィリップと芝居を見に出かけたりもした。
フィリップはチャンミンにとてもやさしかった。
生まれて初めて味わう不安のない暮らしに、
幸せとはこういうことなのかもしれないと…チャンミンは思った。
そんなチャンミンの心を見透かすように、
フィリップはチャンミンを甘やかした。
くちどけのいい極上のチョコレートのような日々。
甘い誘惑にチャンミンは心をすっかり蕩けさせていった…
天国のような暮らしがひと月を過ぎた頃、
チャンミンはもう一度、フィリップに屋敷を出るつもりだと告げた。


「思いがけず、こんなに長くお世話になってしまって…
僕はただの孤児なのに…召使の皆さんにお世話になって暮らすなんて、
身の程知らずもいいところです。もう、そろそろ…
このお屋敷を出ようと思います」


「屋敷を出る?何が不満なのだ?
足りないことがあるのなら言ってくれ。
それとも、私が…嫌いか?」


「いえっ、そんな…フィリップ様のことは…
命の恩人で、かけがえのない方だと思っています。
受けた恩は一生かかっても返しきれないほどだと」


「恩?私が君に恩を売ったとでも?」


いつも穏やかで物事に動じないフィリップの目の色が変わった。


「けっして、そんなことは…あっ…!」


「私は、ただ…チャンミンを愛しているだけなのに…」


フィリップが、チャンミンのあんず色の唇を奪った。
 

 

 

 

 

 

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