*こちらで書いているお話はフィクションです。
登場人物は実在の人物の名をお借りしていますが、
ストーリーは作者の創作によるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

8.




老人は試着室のモスグリーンのカーテンを閉め、


「着替えたら声を掛けておくれ。
ちょっと二階へ行ってカメラを取ってくるから。
ゆっくりでいいよ。ゆっくり…」


試着室の大きな鏡に映った自分の姿を見て、
チャンミンは戸惑いを隠せなかった。
ユノも自分も…けっして整った身なりをしているとは言えない。
自分が身に着けているのは袖がほつれた着古しのセーターだし、
ユノはカイのお下がりのセーターに、膝の薄くなったズボンだ。
見すぼらしい、貧しい身なりの自分たちに、
こんな高級なスーツを試着しろだなんて…
あの老人はよほど変わっていると思った。
そんなチャンミンの複雑な胸のうちを知る由もないユノは、
さっさとセーターを脱いでシャツに袖を通していた。


「見て!このシャツ…すごくすべすべしてて気持ちいいよ」


「ああ、それは…たぶん絹で出来ているんだろうな。光沢が違うもの。
その上着もズボンも蝶ネクタイも…全部、高級な生地で出来てるんだ。
あのお爺さん…ロマンさんはこれを着てもいいと言ったけど…
絶対に汚したり、破くようなことはしちゃダメだぞ」


「うん、わかった…ねえ、チャンミンも着てみてよ!
そっちのもすごく綺麗だよ。布がきらきらして、まぶしいくらい!」


はしゃぐユノを見て、チャンミンは泣きそうになった。
ユノの喜ぶ顔を見ること…これがチャンミンの最上の幸せだった。


「貸してごらん。ネクタイは…こう結ぶんだよ」


「チャンミン、ネクタイなんてしたことあるの?」


「えっ…ああ…したことはない…けど…
結んだことはあるから…」


チャンミンは何かを思い出し、言葉を濁した。
忘れていた…忘れようとしていた過去が、ふと頭を過る。


「やぁ、素晴らしい!やっぱりよく似合うじゃないか!」


「ロマンさん…」


ロマンは手に大きな古いカメラを抱えていた。
チャンミンはシルクの深い紺色地に細くストライプの入ったスーツ。
ユノは薄いグレーの光沢のあるジャケットに、黒のズボン。
えんじ色の蝶ネクタイが華やかさを添えている。


「お言葉に甘えて着させてもらったのですが…
あまりにも贅沢なものなので、なんだか気後れしてしまって」


「なぁに。若い者がそんなに気を遣うものじゃない。
私が着てほしいとせがんだんだ。堂々としていいんだよ。
どうかな…チャンミンくん、ユノくん…着心地のほうは?」


「ロマンさん…呼び捨てにして下さい。
チャンミン、ユノでけっこうですから」


「うん!お爺さん、とっても気持ちいいよ!
すごくかっこいい!まるでぼくじゃないみたい…ふふ」


ユノはそう言って、ロマンの前でくるりと回って見せた。


「うん、うん。本当だ。とてもよく似合っているね。
えっと、ユノ…気に入ったかい?」


「恥ずかしいけど…とっても!チャンミン、どう?」


「…ああ…とても似合ってる」


いつも着古した洋服を着ているユノ。
両親が健在で、ごく普通の家庭で育っていたなら…
晴れの日にはこんなに綺麗な衣装を着る機会もあったかもしれない。
そう思うと、チャンミンは胸が締め付けられる思いがするのだ。


「二人ともとても美しい。ユノ、チャンミンも褒めてあげたら?」


「えっ…あ…うん…いいと…思う」


ユノは急に余所余所しい態度で、チャンミンに背を向けた。


「こういうの…初めて着たから…似合ってないよな。
自分でもなんだか落ち着かなくて。ロマンさん、すみません。
せっかく着させてもらったけど…もう脱ぎます」


「ちがうってば!似合ってるから…
チャンミンが…すごくきれいだから…
何て言っていいか…わかんないんだ…」


ユノは耳まで真っ赤に染めて俯いた。
驚くチャンミンは大きな瞳を潤ませた。
その様子を見ていたロマンは


「ははは。君たちは本当に仲が良いんだね。
本当の兄弟みたいに、二人には愛がある。
そんな君たちに着てもらえて、この洋服たちも喜んでるよ。
さあさあ、美しい君たちを写真に撮らせてくれないか?」


「えっ…いいんですか?僕たちで…」


「君たちだからこそ、その姿を残しておきたいんじゃないか。
さあ、チャンミンはその椅子に座って…
チャンミンの横にユノは立ってくれるかな?」


「こう…ですか?」


店の奥、片隅に白いカーテンが引いてあった。
その前にはボルドーのビロードを張った椅子が置いてある。


「昔はこのスペースで、よくお客様の写真を撮ったものだ。
仕上がったばかりの背広や燕尾服を着て、
それはそれは皆さん喜んで写真に納まってくれたものだよ」


「僕…こんな風にあらたまって写真を撮ってもらうのは初めてで…」


「ぼくも!」


「ははは、そうなのだね。記念になるとうれしいよ。
チャンミン、長い髪を後ろにやってくれるかい?
うーん、そうだなぁ…少しだけ前に垂らそうか。そうそう!それがいい。
せっかくの美しいブロンドだから…」


椅子の背もたれに手を掛け、
ユノは照れくさそうな表情でチャンミンの側に立った。


「おお、ユノもいい表情だね。では、撮りますよ」


それは夢のような時間だった。
写真を撮り終えると、ロマンは色々な話をしてくれた。
若い頃は空軍のパイロットだったこと、
父親が死んでテーラーを継いだのは25歳を過ぎた頃だったこと。
古参の職人に裁縫の技術を習ったが、修行がつらくて何度も逃げ出そうとしたこと…
その時、つらいことも辛抱できたのは最愛の妻のおかげで…
国から名人としての称号をもらった時は夫婦で喜び合ったこと。
そんな話を面白おかしく聞かせてくれた。
そして…
ロマンの気さくで温かい人柄に触れ、
いつしかチャンミンも自分とユノの境遇を語っていた。


「ユノは春になったら初等学校に入学するのだね。
それはおめでとう。勉強も遊びも頑張るんだよ」


「はいっ!」


「いい返事だね。そうだ…ちょっと待ってて」


ロマンは再び店の二階へと消え、すぐに戻ってきた。


「これを…ユノにプレゼントしよう」


ロマンが布包みを広げると、中から上品な紺色のジャケットが出てきた。
千鳥格子の半ズボン、白いオックスフォードのシャツもある。


「これは…」


「私が作った子供用のジャケットとスラックス、シャツに蝶ネクタイだ。
その昔、私の子供が生まれる時に…
女の子でも男の子でもいいように、ワンピースとこれを作ったんだ。
生まれたのは娘で、孫も女の子だったから…これは出番がないままだった。
ちょうど、ユノにサイズが合うんじゃないかとさっきから見ていたんだよ。
どうかね?これを着て…入学式に行ってくれないか」


あまりにも光栄な申し出だった。
シンプルだが仕立てのいい上品な服を着たなら…
顔立ちの美しいユノが、どんなにか映えるに違いない。
想像しただけでチャンミンはうっとりした。
だが、すぐに現実に戻って


「ダメです!こんなに高価なものはもらえません!
ロマンさんと僕たちは、さっき知り合ったばかりです。
いくら親しみを感じたとしても、これは…困ります!」


「そう言わずに。老い先短い私の願いだ。
この服を着て春を迎えるユノを見てみたいのだよ。
その姿をまた…満開の桜の下で写真に納めさせてほしい」


チャンミンと老人は押し問答になった。
どちらも引かず、とうとう…チャンミンが折れた。


「じゃあ…せめて買い取らせて下さい。
そうでなければ…この服をユノに着せることは出来ません」


チャンミンとユノの暮らしも楽ではない。
これから支払わなくてはならない学費など、たくさんの出費がある。
だが…ここで甘えすぎてしまうのは…
この老人を好ましく思うからこそ、よくないとチャンミンは思った。


「そこまで言うのなら…
チャンミンが用意できる範囲の金額で売ることにしよう。
本当にそれでいいんだね?」


帰り道、意気揚々と石畳を歩くユノは晴れやかな顔をしていた。
お針子をしていた母の血を受け継いだのか、
ユノも洋服の善し悪しがわかるようだった。


「チャンミン、こんなにすてきなの…ありがとう。でも…」


「ユノは何も心配しなくていいよ。僕もこの服を着たユノが見たいんだ」


貧しさの中、生きる二人は…
束の間の夢を抱いて家路を急いだ。

 

 

 

 

 

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