今日は少し冷静な、客観的に見た話をしようと思います。

その前に、どうしても文章に残したい事。

それをまず、書きます。


“ hideって、誰? “


1990年代、カリスマ的なひとりのロックミュージシャンがいました。

ファンでなくても、聞き覚えのあったはずであろう その人の名は、


hide。本名は、松本秀人。


彼が築き上げた世界を見れば、

名前のとおりの、秀でた人でした。


職業は、ギタリスト。歌手。音楽プロデューサー。

現在は、そう記されています。


1987年。ギタリストとして、X JAPANに加入します。

それ以前は、サーベルタイガーというバンドを結成しインディーズでバンド活動を行いました。

サーベルタイガー解散後、X JAPANに加入して2年。


ついにメジャーデビューを果たします。


彼のトレードマークは、ロングの赤髪。

96年頃からは、鮮やかなピンク髪に変わります。

93年には、X JAPANのギタリストと平行して

ソロ活動を開始します。その際 名義を、

HIDE から hide へ変更。

XJAPANの中でも、様々な才能を十分に発揮していましたが、hide としてソロ活動を開始した彼は、瞬く間にひとりのアーティストとしての才能を開花させ、カリスマ的な人気を誇り、圧倒的な存在感と、先見性で音楽シーンを駆け抜けていきます。

96年には、LEMONAed という、単なる音楽事務所に留まらない、全く新しいタイプのレーベルを立ち上げ、これまた誰もやった事のない、新しいタイプのライブイベントをプロデュースし、千葉マリンスタジアムで伝説の野外ライブイベントを行ないます。

そんな中、97年 9月22日。ヴォーカルのTOSHIの脱退により、X JAPANは解散します。

その後、12月31日の大晦日。X JAPANのラストライブを経て、翌日。

1998年1月1日元旦。新聞の紙面で hideは

hide with Spread Beaver として新たに始動する事を

大々的に発表します。

バンドであることに、こだわりを持っていたhide。

バンドでありたいと…想い続けたhide。

hide、I.N.A、D.I.E、CHIROLYN、JOE、KIYOSHI、 そして、K.A.Z 。7人の“怪人“バンドとしての

再スタートを切ります。


1月28日。

hide with Spread Beaver  

ROCKET DIVE 発売。

同時に、L.Aで組んだバンド

zilch としての活動も始めます。

X JAPANが解散し、

悲しみに暮れ、行き場をなくしたファン達への彼の優しさでした。

完全に、

ひとりのアーティストとして

ヴォーカリストとして

Spread Beaver と共に、第2章を歩み始めたhide。

なのに、1998年5月2日。

何の前触れもなく、突然、私たちの前から

消えてしまいました………


あの日は、土曜日だった。

世の中はゴールデンウィーク。

浮き足立つ、キラキラした世界に

真っ黒な、漆黒の雫が一粒落ちる。


あの訃報を聞いたのは、何時頃だっただろうか…。

その瞬間の事は記憶にない。

でも、あの時の痛みは、未だに忘れられない。


我に返った時には、体が震えていて、ただひたすら涙が零れ続けていた。

訳が分からない。このニュースは、何?



当時は、警察の状況証拠による報道だった為

その死は自殺と報じられた。

ファンによる、後追い自殺も相次いでしまった。

その数は50人以上とも言われている。

事態を重く見た警察の要請を受け、YOSHIKI が

涙ながらに後追い自殺を思いとどまるよう呼びかけた。彼は自殺するような人間ではない。と。


hideの死から数ヶ月後、

弟でパーソナルマネージャーでもあった裕士氏が

hideは自殺するような人間ではない。

L.A からの帰国後の時差ボケと、当時、泥酔状態であった事もあり、事故の可能性が高いと思うとの会見を開く。


亡くなる前日。5月1日。

ロケットパンチという音楽番組の収録を行った。

あの収録で録られた DOUBT のパフォーマンスは

本当にかっこよくて、完璧なものだった。

あのまま生きていれば、これをきっかけに更にファンを増やしていたはずだと思う。

でも、この収録を終えた後。

彼は突然姿を消してしまう。


同じく5月1日の深夜には、L.A で録っていたオールナイトニッポンのラジオも放送される。

これこそが、この世で彼が生きているうちに放送された最後のものとなる。

だから、これをリアルタイムで聞いていたファンの心情を思うと、あの訃報はどれほどの悲しみと苦しみを与えただろう…。ラジオを聞いて、たった数時間後に起こった出来事なのだ。


ロケットパンチは、彼が亡くなって1週間後

5月11日から6月1日まで、4週連続で放送される。

hideの死を受け止め、この放送を見る事ができたファンは、一体どれだけいたのだろうか。


本来の、以降の年間スケジュールはこうだった。


5月13日 ピンクスパイダー発売

5月27日 ever  free 発売

7月23日 zilch  アルバム 3.2.1 発売

8月 zilch としてのライブ 

   マリリン・マンソンとの対バン

         LEMONAed イベント

9月 Ja,Zoo 発売

9月~12月31日 Spread Beaver でライブツアー


「98年は、ツアーやるよ。」

そう言っていたhide。


ピンクスパイダーも ever free も 

3.2.1も Ja,Zoo も

彼の死後、発売される。

Spread Beaver のツアーも、決行された。

メンバーにとっても、ファンにとっても、関係者にとっても、

複雑な想いの中での、生涯忘れられないツアー。

前代未聞の、特別なツアー。


あのツアーは、やらなければいけなかった。

義務とか、事情とか、そういう事ではなく。

やらなければ、メンバーもファンも、区切りがつかなかった。現実を、受け止められなかった。モニターにhideの姿を映し出して、ライブをする。彼はもういないんだという、現実を受け止めるツアー。



少年の心を持ったまま、歳を重ねていったhide。

誰よりも

純粋で、繊細で、優しい。

彼の心は、見た目とは裏腹に、本当に繊細だった。

そして、お祭りみたいな楽しい事が大好き。

人を楽しませる事が何より好きだった。

全ては、ファンの喜ぶ姿が見たいから。

そして、その上で自分も一緒に楽しむスタンス。

新しい事や、新しい物も大好き。

もちろん、才能や、天性もあったと思うが、

だから、あれだけ凄い革新的な事ばかりが出来たのだ。


絶対にブレない、強い意思を持ち、

決して揺らぐ事のない信念を持っていた。

ずば抜けた感性と直感で、自分を発信し続けた。

だからこそ、彼が生み出すものは唯一無二で

あんなにも人々を魅了したのだろう。

長い時間を経た今でも、彼の全てのものが色褪せず

違和感も感じさせない。


そしてhideは、単なるギタリストやヴォーカリストではなかった。

93年に制作した映画、Seth et Holth 

94年には写真集の無言激を発表している。

ロックを通して自分を表現する。

それを、ずっと貫き通した。

だから、ソロとして活動する事は自然な流れだった。


ロックに目覚めた15歳。そして、サーベルタイガーとしてバンド活動を始めたその時から、自分を表現する事に、全身全霊を注いだ彼は、アーティストであり、エンターテイナーなのだ。

hideが自分を表現し続ける為に必要だったのが、

15歳の頃の自分。バンド活動を始める前の自分。

松本少年。「秀人」の部分だ。


自分が嫌い。だから、いかに自分がイメージしたように HIDE がかっこよくなれるのかを考えて、松本秀人が HIDE をプロデュースしているのだと

サーベルタイガー時代に、言っていたという。

それは、「秀人」が「HIDE 」を作りあげた事を意味する。

すなわち、秀人とHIDEは別人格という事だ。


ふたりは決して、交じり合わない。


そしてそれが、彼の二面性という部分に繋がる。

BREEDINGは、それを象徴する曲だと思うのは

安易な考えだろうか。ちなみに、DOUBT でも最後に“頭の中の双子“という歌詞が出てくる。


ビジュアルの部分や、発信する物。

「物体」は、HIDE の部分。

生み出される曲や、純粋で繊細で優しい「素顔」の部分は秀人なのだ。


                 ー 続 ー