エレとL. のシリーズ

第2話こちら 👇




つづき、第2話を公開しました。

読者さんのコメントをお待ちしております〜




浴室の蛇口を、

最大限にひねり上げた。

熱湯が勢いよく、

真っ白なシルクのブラウスに

降り注ぐ。


彼の、あの刺激的な残り香を、

夫が部屋に入る前に、

何としてでも消し去りたかった。





手が震え、

心臓は早鐘を打つ。

焦燥感が全身を駆け巡る。


ラベンダーの石鹸を注ぐ手は、

まるで氷のように冷たかった。

彼の記憶が、肌に染み付いているようで、

拭い去りたかった。


ドアの向こうから、

夫の穏やかな声が届いた。

「中で何かあった?」

その瞬間、

心臓が喉まで

跳ね上がり

呼吸すら忘れた。


体が硬直し、とっさに口から

出たのは、

「ええ!香水の瓶を落として、

袖を汚しちゃって!」という、

掠れた嘘。





声は、自分のものとは

思えないほど震えていた。

その嘘が、私をさらに深い闇へと

引きずり込んだ。


鏡の中の葛藤

夫の足音が、

廊下のフローリングに

遠ざかっていくのを聞き、

安堵と、一層深い罪悪感が

押し寄せた。


洗面台の鏡に映る

自分の姿を凝視する。

目に涙が滲み

化粧が酷く滲んでいた。

その顔は、まるで別人のよう。





結婚生活を壊す恐怖と、

L.とのもう一度のキスへの

抑えきれない欲望が、

私の中で激しく戦う。

この矛盾に、私は

引き裂かれそうだった。

 

L.の誘い

裏切りだと、

私の深い部分が叫ぶ。


胸の奥が、ぎりぎりと

締め付けられる。

それでも、あの盗まれた

ひとときの記憶、

彼の指先が触れた感触

そして、あの優しい笑顔が、

鮮明に蘇る。


それは、私にとって

かけがえのない、甘美な毒

これは運命だったの?

それとも、ただの、

取り返しのつかない

愚かな過ちだったのだろうか?

その答えは、

未だに見つからないままだ。



L. 彼は、

私がもう失ったとさえ

思っていた、本当の私を

呼び覚ました人。


彼の言葉は、私の心を

深く揺さぶり

ありふれた日常とは

あまりにもかけ離れ、

あまりにも本物で、

そして、あまりにも

リアルに感じられた。


秘密裏に育まれたこの絆は、

誰にも言えないけれど、

私にとっては揺るぎない、

否定できない真実だった。

彼の存在が、私の世界を

一変させたのだ。


綱渡りの日々

会社での、あの盗み見る視線。

人目を避けて囁き合う、

短い言葉たち。

その全てが、

大きなリスクを伴う、

断崖絶壁の縁で

踊るようなものだった。


スリルと背徳感が混じり合い

それでも私は、

この強く、許されない純愛へと、

抗うことなく深く引き込まれていった。

まるで磁石に引かれるように、

逆らえなかった。


家の中の静寂は、

今や私を責める声のように

重く感じられる。

夫の無邪気な優しさが、

かえって胸を締め付けた。





毎日が、彼への嘘と、

L.への

抑えきれない切望の間で

揺れる、危険な綱渡りの

連続だった。


いつ、誰かに見つかってしまうのか

その恐怖は、

常に私の影のように付き纏う。

一体、あとどれくらい、

私はこの苦しみに

耐えることができるのだろう?

終わりは来るのだろうか。

 

密やかな繋がり

私たちは、互いに

賢い連絡方法を

編み出した。


他人には決して理解できない、

巧妙に暗号化されたメッセージ。

人目を避けた場所からかける、

一瞬の短い電話。


一つ一つの繋がることが、

まるで水中にいる

私にとっての唯一の命綱であり

苦しみの中に咲く、

つかの間の幸福だった。

それが、この過酷な日々を

生き抜く、唯一の希望でもあった。




運命か、過ちか

この道が、どれほど危険に

満ちているかは、

頭では十分に理解している。


失う可能性のあるものの大きさは、

計り知れないほどだ。

でも、もう二度と彼に

会えないと考えること、

この深く、かけがえのない愛を

終わらせることが、

私にとってはそれ以上に、

恐ろしくて、

耐えられないことだった。

その選択は、あまりにも重く、

私の心を押し潰しそうになる。

 

もしかしたら。

ただ、もしかしたら、

この許されない愛こそが、

本当に私にとっての

運命だったのかもしれない。


私の魂に深く刻まれた、

抗いようのない真実。

目を閉じると、彼の香り

あの甘く、そして苦い残り香が、

まだ心の中に鮮やかに

漂っていた。


まるで、彼が今もそこにいるかのように、

私を包み込む。


未来への問い

私たちがこれから、

どこへ向かうのか?

この問いが、静かな浴室に

重く響き渡る。


まるで嵐の前の、

不穏な静けさのように。

その答えは、

まだ見つからないままだ。

ただ、私は信じている。

この気持ちは本物だと。


そう自分に言い聞かせていた、

まさにその瞬間。

洗面台の大理石に伏せて置いた

iPhoneのディスプレイが、

薄暗い空間で唐突に発光した。



通知音を完全に消去した、

例のアプリから暗号化された

メッセージが届いた。

 

『今週末、君を連れ去りたい。

二人きりの場所へ

電車のチケットを取って』

 

Lからの、その短いメッセージ。

画面から目を離せなかった。

ブラウスを洗って震えていた手は、

もう、全く別の熱を帯びていた

 




急いでリビングへ戻り、

マックブックを開かなければ。

後戻りできない破滅へのチケットが

私を待っているのだから。