赤坂の料亭「小雪」の二人の女中は、なじみ客の機械工具商・安田辰郎を見送りに

東京駅13番ホームに立った。

そこからは偶然15番ホームが見え、なんと同僚の女中・お時が見知らぬ若い男とともに

博多行の寝台特急「あさかぜ」に乗り込むところだった。

 

 6日後、香椎海岸で男女の死体が発見された。

単純な情死と思われたが、福岡署の刑事・鳥飼重太郎は、列車食堂のレシートの「御一人様」に疑問を抱く。

 

社会派ミステリー第一作として、昭和32(1957)年2月号から翌年1月号まで、

雑誌『旅』に連載された。

時代は、「三種の神器」(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)が流行語になり、

人びとは衣食住が足りて、国内旅行に目を向けていた頃だ-帝国書院『松本清張地図帖』より

 

 

中学生の頃、何気なくテレビを見ていたら突然この有名な作家の死の報道が流れてきた。

当時私は、昭和近辺の作家の作品を読むことにハマっていて、

主に、川端康成、井上靖、横溝正史、水上勉、向田邦子の作品を読んでいた。

堀辰雄『風立ちぬ』と、三浦哲郎『忍ぶ川』も読んでいたっけ。

 

でも松本清張は読んでいなかった。

清張作品はドラマでもよくやっていたし、

本をまったく読まない人でも名前だけは知っているくらい超有名な作家であったから、

読んでみたいなぁとはほんのり思っていたけれど、

当時の私には、松本清張のどうしても受け入れ難いある一点があって、

読むことができなかった。

 

その一点というのがこの文豪の、

作品とか実力だとか、そういうこととは遠く離れた、

まったくもって身勝手な理由であり、

でも十代の乙女(!?)特有の、

繊細といえば聞こえは良いけど、

時として残酷でもある潔白な理由であったのでした。

 

かくして私が清張作品を初めて読んだのは結婚をして子も産み、

そろそろ30歳になる頃で、

その頃にはもう乙女(!?)でもないし、

一応酸いも甘いも分かり始めていた年齢でもあったので、

読み始めたらもう止まらず、今まで読んでこなかった時間を埋めるかのように、

そりゃあもう夢中になって読んだものでした。

 

その記念すべき(?)初清張作品であったのが、この『点と線』。

 

面白かったのは言うまでもなくて、

読んでいる間中、驚きと不思議と怒りと哀しみで、

ただただドキドキしながら読んでいました。

 

「女中」という言葉も「寝台特急」も「連絡船」も、

令和の今では死語どころか化石に等しい言葉だけれど、

清張の世界では今も現役の言葉として生き生きとしているのです。