私たちの嘆き悲しみを担われた神さま ~イエス・キリスト | 十字架の愛 ~イエス・キリスト~ | 聖書・教会

十字架の愛 ~イエス・キリスト~ | 聖書・教会

聖書を通して示される、
創造主なる神さまの愛と救いをお伝えします!
God loves you.☆

イエス・キリストは神さまの愛
東京で聖書を学ぶ教会「神愛エクレシア」



「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。」

                      (聖書・詩篇22:1)



壮絶な悲しみや苦しみの中にいるとき、まるで神さまに見捨てられてしまったかのように思ってしまう方はいないでしょうか?


職場でのいじめや嫌がらせ、大切にしていた人との別れ、信じていた人からの裏切り、突発的な事故、貧困、それに、不治の病など。。。


「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」 これは、イエス・キリストが十字架の上で発した言葉でもあります。(聖書・マタイ27:46)




イエス・キリストは、天上の栄華に満ちた生活を捨て去ってまで、
この地上に降りて来られ、人の子として生活をされました。

神さまの愛と救いを伝え、多くの病人を癒し、悪習慣に捕らわれている人々を解放し、神さまを愛し隣人を愛する生き方へと導いていかれました。



しかし、あまりにも影響力が出たために、時の権力者に問題視され、
迫害されてしまいました。


無実であるにも関わらず、陰謀によって死刑の判決が言い渡され、兵士に
縄で引かれながら、大勢の人々の前であざけられ、ののしられ、つばを
吐きかけられて、笑い者にされました。


40回の鞭打ちの刑を受け、皮の鞭だけでなく、鉄が付いた鞭、針が付いた鞭で叩かれ、さらし者にされました。


イエスさまを信じて従っていた弟子たちにも裏切られて、孤独を抱えたまま、自分の身長よりも大きな木の十字架を担がされて、処刑場まで歩かされました。

息絶え絶えで、疲れ果て、意識が飛んで倒れてしまうほどでした。


そして、釘で両手と両足を十字架に刺し込まれて、吊るされたのです。



その時の様子が、聖書の中の詩篇に次のように描写されています。



「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。

私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

私の力は、土器のかけらのように、かわききり、

私の舌は、上あごにくっついています。

あなたは私を死のちりの上に置かれます。

犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

私は、私の骨を、みな数えることができます。

彼らは私をながめ、私を見ています。」


                     (聖書・詩篇22:14~17)



精神的・肉体的な悲痛を抱えた十字架の上で、イエスさまは7つの言葉を発せられましたが、そのうちの1つが「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」 (聖書・マタイ27:46)です。


神さまの御子、世界の救い主として来られ、神さまの守りと力によって多くの奇跡を行っていた方が、十字架刑に処され、さらし者にされてしまいました。



一体なぜでしょうか?


なぜこれほどまで無惨な姿にならなければならなかったのでしょうか?



「私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」


                        (聖書・イザヤ53:4~6)



それは、私たちの罪の身代わりになるためです。


「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」

                        (聖書・ヘブル9:26~28)



スケープゴート。「贖いの小羊」の絵画は、ご覧になった方も多いと思います。旧約聖書時代、イスラエルの民が犯した罪を神さまに赦していただくために、小羊を屠ってその血を注ぎかけ、死体は荒野で焼くという儀式をしていました。

イエス・キリストは、私たちの罪が赦されるために、ご自分が贖いのいけにえとなられたのです。


「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

                        (聖書・Ⅰペテロ1:18,19)


私たちの側の行いではなく、
ただ神さまの恵み、イエス・キリストの身代わりの犠牲を信じることによってのみ、私たちは救われます。


イエス・キリストの十字架に、私たちの罪、悩み、嘆き、悲しみ、貧しさ、それに、病を釘付けにすることによって、神さまがそれらを担い、救い出してくださいます。



「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

                        (聖書・Ⅱコリント8:9)


「富む者となるため」と約束されているように、霊的な豊かさ、精神的な豊かさ、肉体的な豊かさ、経済的な豊かさを、神さまは与えてくださいます。



「主は、

あなたのすべての咎を赦し、

あなたのすべての病をいやし、

あなたのいのちを穴から贖い、

あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

あなたの一生を良いもので満たされる。

あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」


                    (聖書・詩篇103:3~5)
          
     
   

この神さまを、
私たちの救い主であり、私たちの嘆き、悲しみを担って下さる
イエス・キリストを、あなたも信じてみませんか?




そうすれば、詩篇の作者のように、そしてイエスさまのように、
神さまに見捨てられているかのような悲惨な状況の中でも、
信頼を失わずに、希望と平安を持ち続けることができると信じます!



「わが神、わが神。 どうして、私をお見捨てになったのですか。

遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。
夜も、私は黙っていられません。


けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。」

                      (聖書・詩篇22:1~5)



「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、
御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

大会衆の中での私の賛美はあなたから出たものです。
私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。

悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。
また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。」


                      (聖書・詩篇22:24~28)



ハレルヤ!