好きな色はなんですか?
私の好きな色は変わりました。
以前はシアンブルーや、水色などの爽やかな色。
今は透明。それも深い深い透明度の高い、限りなく不純物が何もないクリアな透明。
ディープブルー、やディープグリーンといった色があるなら強いて言うならディープクリア。
これは私の人生のバイブル「こどものおもちゃ」の続編?みたいなモノのタイトルと同じなのですが。
「色」に該当させるなら透明、は白にあたる。
けれどそこには白、という色がついている。
透明には色がない。
他のどんな色をも吸収し、透明という色自身は時には光をも放つ。
無色透明なもの、を連想すると多くの人がガラスや水を連想するだろう。
明確に言えば水にもガラスにも色はあるのだが、そこは一旦おいておくとして。
水は汚れを洗い流し、悲しみや苦しみからくる涙も洗い流す。滝行で穢れを洗い流すのも、自然から湧き出る透明な水。
すべてを洗い流すのは「透明」な水。
わざわざ汚れた水で滝にうたれる人はいないだろう。リフレッシュの為にシャワーを泥水で汚す人もいないだろう。
全てを流してくれるのは「透明」なものだけ。
無色透明な宝石の原石を磨いていればやがてはもしかすると、オーロラの様な光を。
それは輝きかもしれないし、眩しさかもしれない。光かもしれない。眩きかもしれない。
「綺麗」なものには恐らくなるだろう。
その道は磨き方によるかもしれないし、使う道具かもしれないし、道具を使った角度かもしれない。磨き方によって様々な可能性を見せてくれる色、それが透明という色なのではないかと思う。
透明は何色を混ぜることもでき、その色に染まることができる。
色々な色を混ぜればやがてはほぼ「黒」に近いぐちゃぐちゃな色になる。
けれど、この濁りを何度も何度も取り除いていけば、やがてはまた透明にすることもできる。
何色にも染まれるが、また透明になることができる。「透明」とはそういう色ではないだろうか。
人を色として例えるなら、あくまでイメージではあるが
イメージ色→黄色やオレンジ
元気があってはつらつとしていて、周りにも明るさを与える。
イメージ色→青や水色
落ち着いていて、大人っぽい、物静か
など人それぞれイメージはあるだろう。
色や人にも相性はあり、黄色と青が混ざれば緑、
青と赤が混ざれば紫。
など「いくら混ぜても綺麗な色」になるものもあれば、逆に混ぜれば混ぜるほど、ぐちゃぐちゃな茶色のような黒のような変な緑のようなマープル色になる場合もある。
けれども、その混ぜる色の割合を変えることで「ちゃんとした色」にする事も出来る。
要は割合の問題。
人で例えるなら人同士の距離感、だろうか。
本来2色の色を均等に混ぜれば丁度いいのに、片方の色を多く混ぜすぎることによって、
もしくは少なすぎることによって
本来適切である分量を誤り、ぐちゃぐちゃな色になってしまう。
しかし「透明」という色はそれがない。
どれだけの分量の「青」を混ぜられたとしても「青」以外にはなりえない。
何も混ぜなければ、それが一番いい。
ディープクリア。
不純物の何ひとつもない、ただただひたすら透明で純粋な色。
これ以上綺麗な色が他にあるだろうか。
あくまで私の意見ではあるが。
先程言った、「無色透明」。
よく死は無に帰す、というが言葉だけを捉えれば不穏な響きかもしれない。
けれど、無色透明と透明が似たようなものならば、死は不純物の一切ないただひたすらに淀みもない静かな透明でクリアな海に放り込まれるだけではないだろうか。
身も心も、すべてを浄化させるための生き物としての最期の儀式。そう考えると死という事自体は周囲は悲しむかもしれないが、
本質はとても尊く、儚く、綺麗なものなのではないだろうか。
どんな悪人であろうと、人として生まれたからにはいつかは死を迎える。
それは、その人が行ってきた数々の悪行を洗い流すという最後の儀式。
した事が許される、許されないは別として死という儀式を以て、透明になる事により、その人自身は浄化される。
人は本来、無から生まれた。
とはいうが、生物学的に言えば決して「無」ではない。そもそも男性、女性という存在が必要だ。
例えば漫画。今ではほとんどがデジタルだが、それを生み出す原作者の存在はもちろん、それらを「漫画」として完成させるための道具は必要で、この世の中にはそんなものは溢れかえっている。これも今では「無から」ではない。
本当の無から生まれた、は宇宙が初めて存在したレベルの話かもしれない。
そして「死は無に帰す」ということは、その何もない世界に帰る、ということ。
無に帰す。楽しみや喜びはもちろんだが、苦しみも悲しみも、己の罪悪感や重圧や罪悪感など「負」な感情や一面も一切なにもない、透明な場所。
ただひたすらに何もないクリアで純粋な場所に帰ることができる。
ただそれだけの話ではないだろうか。
ただ、生きている限り「透明で綺麗で純粋」な場所にはなかなか行かせてくれない。
無から有を生み出すこと。
とは真逆の意味「無に帰す」
今あるものや、いた人を、周囲の人間関係も含め、それぞれの感情や未練や悔い、ほんの僅かな「そこに何かがあった、いた」という痕跡など、いくら精密な電子顕微鏡で探しても、遺伝子検査をしても何一つ残さず「そこにあった」「そこにいた」という痕跡を完全に無くす。
どちらが難しいのだろうか。
私は本当の意味で「綺麗な世界」に憧れる。
しかしそれは、この世界には存在しない。
「綺麗事」のない「綺麗」な世界。
損得や欲などの、人間の醜い部分。
そんなものが一切存在しない世界は「この世界」のどこにもないのだ。
だからか、私は見たことのない死後の世界に怖さもあるが憧れもある。
そのための自殺、自分で自分を殺すこと。
誰もがほんの少しでも一度は「死にたい」そう思ったコトはあるのではないだろうか。
まぁ、無いなら無いでそれに越したことはない。
自殺は死ぬ方法で最も苦しい、と思う。
未遂なら何度もしたが、やはり理性が少しでも残っていると出来ない。
だから自殺を成し得た人は多くの人が事前に睡眠薬や服毒などで、意識が朦朧とした状態で飛び降りたりするのだろう。
自殺未遂をしたことある人は幾らでもいるだろうが、完全にそれを成し遂げ蘇った人はいない。いたらゾンビだ。
だから、だれも「本当の意味での」自殺したことがある。そんなに怖くなかった、とても辛かった。などの体験談を語ることがいる人はいない。いたとしたら、その人はもうこの世にはいない。
だから「完全な体験談」を語ることは誰もできない。
「自殺しようと思って勇気を出したのに、結局助かり死ねなかった」
これは1番辛いだろう。本人は、この世のすべてが嫌になり、とんでもない勇気が必要な事をしたと思ったのに、まだ生きてる。生かされている。
本人が死にたいと強く願い実行したのに、周囲がそれを許さない。
下手をすれば部分的に麻痺だけが残ったり顔や体のどこかが変形してしまい醜くなり、
死のうと思っていたときよりも辛い生き方を強いられる。
命は大切にしなければならない。
その言葉自体を否定するつもりはない。
けれど、私はソレは「綺麗事」だと思う。
本人の意思を無視して「生きろ」と周りが強いるのだから。
「死にたい」とネットで検索しても救済するようなサイトや電話番号が出てくるばかりで、「具体的に楽に死ねる方法」なんてどこにもない。
あったとしても自殺未遂をしたが、結局生きてその後の苦しみを綴ったブログが出てくるだけ。
その内容を見ると、死ぬことよりも「その後助かってしまった場合の苦しみ」が勝ってしまい、より死ぬのがより怖くなる。
本人が心の底から強く「死にたい」と願うなら、それはそれで1つの、少なくとも本人にとっては救済処置の一つにはなるのではないだろうか。
「生きていれば必ずいい事がある」
そんな慰めの言葉をかけられたところで、自分で自分を殺すまでに追い詰められた人間にはそんな言葉は届かない。
いつ来るの?
どういう形で来るの?
誰が助けてくれるの?
どうすれば、幸せと心から思う日々を過ごすことが出来るの?
それを明確に、それも出来るだけ早く来てほしい事を言ってくれないと納得なんて出来やしない。
たとえば20歳の人に、それは50歳になれば必ずこういう形で来ますと言われたとしてもだ
その人は
「あと30年も苦しみ続けなければならないの?自分の人生の倍以上苦しんで、やっと幸せが来るの?
そこまでしないと、自分は幸せになれないの?
そんなに耐えられない、既に自殺未遂までしているほど追い詰められているのに、まだ30年生きてやっと「平凡な幸せ」?
その30年を生きろと言うなら、この20年間の苦しみを全て忘れるくらいの、今までの人生をひっくり返すほどの幸せをよこせ!
等価交換としては軽すぎる!」
少なくとも私ならそう思う
あまりスピリチュアルな事はわからないから、その後、輪廻転生やら、生まれ変わるやらそういう事は分からない。
けれど「透明」というモノの綺麗さに気付いてからは、色々と考えが変わった。
複雑なことを色々言ったが、パット見で「透明」な物は周りにいくらでもある。
そして、それらは大抵の形状が「シンプル」なのだ。
例えば空気。何となく淀んでいるなと思ったら換気をすればいい。
何となく花の香りが部屋に欲しいと思えば、ディヒューザーや、芳香剤など好きな物を置けばいい。
ガラス。汚れていれば拭き取ればいい。
そして、水は全てを洗い流し綺麗にし、浄化するもの。
黒いものは部屋を圧迫して見せる。
もしもずっと昔からこの世の中全てのものが透明だったら、人が「透明」という色を認識出来るなら、全てを見通せる。良くも悪くもではあるが。
そしてその材質にもよるだろうが透明なものは綺麗な物はより綺麗に、汚れている物は汚れが目立つ。
綺麗な物はより綺麗にと保つだろうし、
汚れていたら気になって洗ったり拭いたりするだろう。
目に見えないものを見せてくれる色、そして何色にもなる事が出来る、それが透明という色。
好きな色はなんですか?
透明。
と、答える人はどれくらいいるのだろうか。
ピンク、青、白。人それぞれだと思います
私の好きな色は変わりました。
以前はシアンブルーや、水色などの爽やかな色。
今は透明。それも深い深い透明度の高い、限りなく不純物が何もないクリアな透明。
ディープブルー、やディープグリーンといった色があるなら強いて言うならディープクリア。
これは私の人生のバイブル「こどものおもちゃ」の続編?みたいなモノのタイトルと同じなのですが。
「色」に該当させるなら透明、は白にあたる。
けれどそこには白、という色がついている。
透明には色がない。
他のどんな色をも吸収し、透明という色自身は時には光をも放つ。
無色透明なもの、を連想すると多くの人がガラスや水を連想するだろう。
明確に言えば水にもガラスにも色はあるのだが、そこは一旦おいておくとして。
水は汚れを洗い流し、悲しみや苦しみからくる涙も洗い流す。滝行で穢れを洗い流すのも、自然から湧き出る透明な水。
すべてを洗い流すのは「透明」な水。
わざわざ汚れた水で滝にうたれる人はいないだろう。リフレッシュの為にシャワーを泥水で汚す人もいないだろう。
全てを流してくれるのは「透明」なものだけ。
無色透明な宝石の原石を磨いていればやがてはもしかすると、オーロラの様な光を。
それは輝きかもしれないし、眩しさかもしれない。光かもしれない。眩きかもしれない。
「綺麗」なものには恐らくなるだろう。
その道は磨き方によるかもしれないし、使う道具かもしれないし、道具を使った角度かもしれない。磨き方によって様々な可能性を見せてくれる色、それが透明という色なのではないかと思う。
透明は何色を混ぜることもでき、その色に染まることができる。
色々な色を混ぜればやがてはほぼ「黒」に近いぐちゃぐちゃな色になる。
けれど、この濁りを何度も何度も取り除いていけば、やがてはまた透明にすることもできる。
何色にも染まれるが、また透明になることができる。「透明」とはそういう色ではないだろうか。
人を色として例えるなら、あくまでイメージではあるが
イメージ色→黄色やオレンジ
元気があってはつらつとしていて、周りにも明るさを与える。
イメージ色→青や水色
落ち着いていて、大人っぽい、物静か
など人それぞれイメージはあるだろう。
色や人にも相性はあり、黄色と青が混ざれば緑、
青と赤が混ざれば紫。
など「いくら混ぜても綺麗な色」になるものもあれば、逆に混ぜれば混ぜるほど、ぐちゃぐちゃな茶色のような黒のような変な緑のようなマープル色になる場合もある。
けれども、その混ぜる色の割合を変えることで「ちゃんとした色」にする事も出来る。
要は割合の問題。
人で例えるなら人同士の距離感、だろうか。
本来2色の色を均等に混ぜれば丁度いいのに、片方の色を多く混ぜすぎることによって、
もしくは少なすぎることによって
本来適切である分量を誤り、ぐちゃぐちゃな色になってしまう。
しかし「透明」という色はそれがない。
どれだけの分量の「青」を混ぜられたとしても「青」以外にはなりえない。
何も混ぜなければ、それが一番いい。
ディープクリア。
不純物の何ひとつもない、ただただひたすら透明で純粋な色。
これ以上綺麗な色が他にあるだろうか。
あくまで私の意見ではあるが。
先程言った、「無色透明」。
よく死は無に帰す、というが言葉だけを捉えれば不穏な響きかもしれない。
けれど、無色透明と透明が似たようなものならば、死は不純物の一切ないただひたすらに淀みもない静かな透明でクリアな海に放り込まれるだけではないだろうか。
身も心も、すべてを浄化させるための生き物としての最期の儀式。そう考えると死という事自体は周囲は悲しむかもしれないが、
本質はとても尊く、儚く、綺麗なものなのではないだろうか。
どんな悪人であろうと、人として生まれたからにはいつかは死を迎える。
それは、その人が行ってきた数々の悪行を洗い流すという最後の儀式。
した事が許される、許されないは別として死という儀式を以て、透明になる事により、その人自身は浄化される。
人は本来、無から生まれた。
とはいうが、生物学的に言えば決して「無」ではない。そもそも男性、女性という存在が必要だ。
例えば漫画。今ではほとんどがデジタルだが、それを生み出す原作者の存在はもちろん、それらを「漫画」として完成させるための道具は必要で、この世の中にはそんなものは溢れかえっている。これも今では「無から」ではない。
本当の無から生まれた、は宇宙が初めて存在したレベルの話かもしれない。
そして「死は無に帰す」ということは、その何もない世界に帰る、ということ。
無に帰す。楽しみや喜びはもちろんだが、苦しみも悲しみも、己の罪悪感や重圧や罪悪感など「負」な感情や一面も一切なにもない、透明な場所。
ただひたすらに何もないクリアで純粋な場所に帰ることができる。
ただそれだけの話ではないだろうか。
ただ、生きている限り「透明で綺麗で純粋」な場所にはなかなか行かせてくれない。
無から有を生み出すこと。
とは真逆の意味「無に帰す」
今あるものや、いた人を、周囲の人間関係も含め、それぞれの感情や未練や悔い、ほんの僅かな「そこに何かがあった、いた」という痕跡など、いくら精密な電子顕微鏡で探しても、遺伝子検査をしても何一つ残さず「そこにあった」「そこにいた」という痕跡を完全に無くす。
どちらが難しいのだろうか。
私は本当の意味で「綺麗な世界」に憧れる。
しかしそれは、この世界には存在しない。
「綺麗事」のない「綺麗」な世界。
損得や欲などの、人間の醜い部分。
そんなものが一切存在しない世界は「この世界」のどこにもないのだ。
だからか、私は見たことのない死後の世界に怖さもあるが憧れもある。
そのための自殺、自分で自分を殺すこと。
誰もがほんの少しでも一度は「死にたい」そう思ったコトはあるのではないだろうか。
まぁ、無いなら無いでそれに越したことはない。
自殺は死ぬ方法で最も苦しい、と思う。
未遂なら何度もしたが、やはり理性が少しでも残っていると出来ない。
だから自殺を成し得た人は多くの人が事前に睡眠薬や服毒などで、意識が朦朧とした状態で飛び降りたりするのだろう。
自殺未遂をしたことある人は幾らでもいるだろうが、完全にそれを成し遂げ蘇った人はいない。いたらゾンビだ。
だから、だれも「本当の意味での」自殺したことがある。そんなに怖くなかった、とても辛かった。などの体験談を語ることがいる人はいない。いたとしたら、その人はもうこの世にはいない。
だから「完全な体験談」を語ることは誰もできない。
「自殺しようと思って勇気を出したのに、結局助かり死ねなかった」
これは1番辛いだろう。本人は、この世のすべてが嫌になり、とんでもない勇気が必要な事をしたと思ったのに、まだ生きてる。生かされている。
本人が死にたいと強く願い実行したのに、周囲がそれを許さない。
下手をすれば部分的に麻痺だけが残ったり顔や体のどこかが変形してしまい醜くなり、
死のうと思っていたときよりも辛い生き方を強いられる。
命は大切にしなければならない。
その言葉自体を否定するつもりはない。
けれど、私はソレは「綺麗事」だと思う。
本人の意思を無視して「生きろ」と周りが強いるのだから。
「死にたい」とネットで検索しても救済するようなサイトや電話番号が出てくるばかりで、「具体的に楽に死ねる方法」なんてどこにもない。
あったとしても自殺未遂をしたが、結局生きてその後の苦しみを綴ったブログが出てくるだけ。
その内容を見ると、死ぬことよりも「その後助かってしまった場合の苦しみ」が勝ってしまい、より死ぬのがより怖くなる。
本人が心の底から強く「死にたい」と願うなら、それはそれで1つの、少なくとも本人にとっては救済処置の一つにはなるのではないだろうか。
「生きていれば必ずいい事がある」
そんな慰めの言葉をかけられたところで、自分で自分を殺すまでに追い詰められた人間にはそんな言葉は届かない。
いつ来るの?
どういう形で来るの?
誰が助けてくれるの?
どうすれば、幸せと心から思う日々を過ごすことが出来るの?
それを明確に、それも出来るだけ早く来てほしい事を言ってくれないと納得なんて出来やしない。
たとえば20歳の人に、それは50歳になれば必ずこういう形で来ますと言われたとしてもだ
その人は
「あと30年も苦しみ続けなければならないの?自分の人生の倍以上苦しんで、やっと幸せが来るの?
そこまでしないと、自分は幸せになれないの?
そんなに耐えられない、既に自殺未遂までしているほど追い詰められているのに、まだ30年生きてやっと「平凡な幸せ」?
その30年を生きろと言うなら、この20年間の苦しみを全て忘れるくらいの、今までの人生をひっくり返すほどの幸せをよこせ!
等価交換としては軽すぎる!」
少なくとも私ならそう思う
あまりスピリチュアルな事はわからないから、その後、輪廻転生やら、生まれ変わるやらそういう事は分からない。
けれど「透明」というモノの綺麗さに気付いてからは、色々と考えが変わった。
複雑なことを色々言ったが、パット見で「透明」な物は周りにいくらでもある。
そして、それらは大抵の形状が「シンプル」なのだ。
例えば空気。何となく淀んでいるなと思ったら換気をすればいい。
何となく花の香りが部屋に欲しいと思えば、ディヒューザーや、芳香剤など好きな物を置けばいい。
ガラス。汚れていれば拭き取ればいい。
そして、水は全てを洗い流し綺麗にし、浄化するもの。
黒いものは部屋を圧迫して見せる。
もしもずっと昔からこの世の中全てのものが透明だったら、人が「透明」という色を認識出来るなら、全てを見通せる。良くも悪くもではあるが。
そしてその材質にもよるだろうが透明なものは綺麗な物はより綺麗に、汚れている物は汚れが目立つ。
綺麗な物はより綺麗にと保つだろうし、
汚れていたら気になって洗ったり拭いたりするだろう。
目に見えないものを見せてくれる色、そして何色にもなる事が出来る、それが透明という色。
好きな色はなんですか?
透明。
と、答える人はどれくらいいるのだろうか。