日曜日のデートの帰り、アタシは電車の中で、いつものとおり「ありがとうメール」を打っていた。

終点駅が近いせいか、珍しく途中から4人掛けの席に座ることができた。


幸せそうな家族連れ、部活帰りの高校生、自慢話ばかりしているおばさんグループ……

電車に乗っていると、ちょっとした人間観察ができる。


そんな中、隣の車両から50歳前後の男がフラフラとこちらの車両へやってきた。
その男性は、席が空いているにもかかわらず、手すりに腰をかける。

なんだか妙な人だなと思いつつ、特に気にしないように努め、携帯をカバンにしまう代わりに本を取り出した。

読書はアタシの日課――むしろ癖に近いもので、時間さえあればどこでも本を開く。
ジムで一生懸命エアロバイクを漕いでいる最中でも、待ち合わせをしているときでも、そしてデートの帰りであっても……。


そのうち、アタシは本の世界に入り込み、男のことなどすっかり忘れてしまう。
そう、気配を感じるまでは。


なんとその男は、アタシの隣の席に座ったのだ。

もちろん、普通に座ったのなら、アタシも大して気に留めなかったと思う。

しかし、男の座り方はなんとも異様だった。


アタシは身体が小さいので、2人掛けの椅子だと、だいたい3分の1ほどしか占めないのだが、なぜだかその男とぴったりくっついてしまうのだ。
まるで満員電車で立っているときのように。

無性に嫌悪感を覚える。

アタシは、男の下敷きになってしまっているスカートの一部を引っ張り、さらに端に寄った。
するとその男はさらに身体を大きく伸ばす。

(いや、アンタのために端に寄ったんちゃうから!!)

哀しいかな、心の中で突っ込むしかないアタシ。


それほど大柄だとは思えなかったのに、どうしてこんなに狭くなってるんやろう……?? と不思議に思う。


しばらくして、男が口を開いた。

「あ、脚、伸ばしてな。いいから伸ばして」
「え? ……あ、はい」

伸ばすも何も、アタシの向かいには人が座っている。
いったいどこに伸ばせというのだ??

しかし、男はもう一度同じことを繰り返し、席を立った。

「どうもありがとう」
「え?」

アタシは何がなんだかわからないまま、男を見送る。

当然、次の駅で降りるんだろうと思いきや、男はまた別の席へ座った。


そんなふうにして、何度か席を変え、車両を変え、たった5駅ほどの間に、男はアタシの前を何往復もしたのだ。


結局その男が何者で、何のためにあんなにくっついてきたのかは謎なのだが、「いいから伸ばしてな」というその口調に、アタシはあることを思い出していた。




確か、小学校6年のときだったと思う。

アタシはいつものように、両親が買い物をしている間、1人、本の売り場で座り読みをしていた。

一度読み始めると、時間を忘れ、周りも見えなくなるアタシは、近寄ってくる人の気配にまったく気づかなかった。


ふと、お尻のあたりに誰かの手が触れ、アタシは思わず飛びのいた。

「あ、ごめんね」
「いえ、すみません」

アタシはてっきり、そこにいる男が本屋のおじさんで、在庫の棚を開けようとしていたのだと勘違いする。

しかし男は、アタシがそこをのいても棚を開けようとせず、
「ごめんね、いいからもう1回座って」
と言う。


「あ、大丈夫です」

座り読みをしていたことに少し罪悪感があったアタシは、慌ててそう答えた。

「いいから座って。もう何もしないから」
「……あ、はい」

お店の人がここまで言ってくれるなら……と、アタシは再び座ることにした。

すると、またしてもその男の手がお尻に触れる。
しかも今度は、かなり強くギュッとされた。

アタシはさっきよりも驚き、さっきよりも遠くへ飛びのく。

やっぱり棚を開けるのに邪魔だったんだ、と思い、
「大丈夫ですから、立ってますから」
と、アタシは男に言った。


「ごめんね、もう本当に何もしないから、座って」
「いえ、大丈夫です」
「お願い、座って」
「いえ、ホントに大丈夫ですから」
「いいからお願い、座ってよ」


ようやくアタシは気がついた。
この男は、本屋のおじさんではないことに。

そう、痴漢だったのだ。



アタシは、ごく自然に見えるよう、「大丈夫ですから」と言いながら、もっと人の多いコーナーへ移った。

しかし、どうしてもさっき読んでいた本の続きが読みたくて、30分ほど経ったころ、さっきの男が近くにいないことを確かめてから、また元のところへ戻った。

すると、どこで見ていたのだろうか、またそいつが現れたのだ。


アタシが逃げようとすると、その男はアタシの口に自分の指を突っ込み、その指を舐めながら走り去っていった。




しばらく放心していたアタシは、吐き気をもようし、トイレにかけこんだ。

口をイヤというほどゆすぎ、唇が腫れるほどこすった。

だけど、感触は一切消えず、身体は震えが止まらなかった。


自分は悪くないのに、その後一切、親にも友達にも話せなかった。

つまり、ずっと心の奥底にしまいこんでいた、思い出したくない記憶だったのだ。




本、奇妙な男、「いいから~して」……

たったそれだけのキーワードで、いとも簡単に幼い頃の苦い記憶がよみがえってしまった。


今回、電車の中で出会った男は、単にちょっと変わった人だっただけなのかもしれない。

だけど、アタシが抱いた嫌悪感は本物で、警戒したのは事実だ。


自分でもわからないほど奥深くで、知らず識らずのうちに、トラウマになっているのだろうか。



こんなことぐらいでどうして? と自分に問いかける。
そして、自分が思っているほど強くはないことに、ようやく気がつく。



強くないなら強くないなりに、しっかり素直にならなければ、そう痛感した。