「学ぶ」という言葉は、
昔、「まねぶ」と読まれていたそうで、
それは「真似る」が語源となっている、
すなわち、
学ぶということは、真似るということをその基礎としているのだ、という説があると思うのですが、
息子は本当に真似ません。
すなわち学びません。
中学受験において、問題は、
解ければなんでもいいわけではありません。
ただ解けるだけではなく、
早く、正確に、解ける必要があるのです。
みんなが解ける問題を、いかに早く解き、
差のつく問題に時間を割り当てることができるかで、勝負が決まります。
そのためには、より効率の良い解法があれば、
取り入れ、真似る必要があります。
以前、こどもたちに、
「今あなたたちがしてるお勉強ってね、
ゲームの攻略本みたいなものなんだよ。
たとえば、
昔のすごい人が発明してくれた0の概念をね、
今の時代だと、あなたたちみたいなおチビさんでもわかるんだよ。
ゼロの考え方を生み出すって、
すごいことだったんだよ。
他にもあるよ。
歴史を勉強すればね、
戦争をしなくても、
あ、戦争ってこんな酷いことになっちゃうんだ。
じゃあやめておこうね。
って思えるんだよ。
自分で体験してみて辿り着くことも大切だけど、
人の一生は短いから、昔の人がやってくれたことに関しては、攻略本でワープさせてもらって、
未来の人は、その先へ進むんだよ。」
と話したのですが、
「うん、わかった。」と言って、
要領よく攻略サイトを見て、さくさくゲームを進めていく娘と対照的に、
「ぼく、自分のやり方でやりたい。」と言って、
いつまでも進まない息子。
一事が万事そうなので、
あまりにジリジリしてしまい、
息子が4年生の時、面談で、
担任の先生にポロッと愚痴ってしまいました。
すると、先生から、
「お母さんは、〇〇くんに、
要領のいい子に育ってほしいですか?」
と聞かれました。
え…と、それは、まぁ、要領が悪いよりはいい方がいいような…
でも、よく考えると、
「あいつは要領がいいな!」
と言う時、
なんとなく悪口っぽく聞こえる気がします。
中身がないのに、要領だけで上手く渡っていく軽薄さを非難されているような。
たとえ中身があったとしても、使わなくていい変な力を使って、周りからちょっと白い目で見られているような気がするのは、私だけでしょうか。
「自分、不器用ですから…」の美学の、
正反対です。
よく考えたら、
要領のいい子にはなってほしいは、
違う気がしてきました。
と言うと、先生は笑って、
「ぼくは〇〇くんのそういう所好きですよ」
と言ってくださって、
うん、とりあえず、要領よくなってほしいって思うのはやめます、と思いながら帰宅しました。
先日、その要領の悪い息子は、英語の成績が崖っぷちで、留年の危機にありました。
「なんでわざわざそんな崖っぷちを歩くのさ」
と聞くと、
「ぼく、ほら、数々の崖っぷちをくぐり抜けてきてるからさ、足元の感覚がなんとなくわかるんだよね。これ以上行ったらやばい、みたいなさ。」
と返ってきたんですが、
これでは、毎度崖っぷちを目指す答えになっていません。
なんとか基準点をクリアし、進級が決まった後、
目をキラキラさせて、
「いや、実はこれ、すごい感動したんだけどさ、
英単語って、
書くとめっちゃ覚えられるんだね!!」
と言ってきました。
ようやく自力でそこに辿り着いたか…!
できれば4年くらい前に辿り着いててほしかったけどね…!!
そしていよいよ、満を持して、
高校受験の時にお世話になった個別指導をまたお願いしようかと思う、と言い出しました。
ほうほう、
ようやくちょっとはやる気になったかい。
塾の先生から、たんまり出された宿題を、
ベッドでゴロゴロ、床でゴロゴロ、
犬とゴロゴロしながら、眺めています。
「書いたら覚えられるって言ってたやん。
書かないの?」
と聞くと、
「まだその時ではない。」
と返ってきました。
要領のいい子に育ってほしいわけじゃないとか言っちゃったけど、
前言撤回したいです。