REP)1995年3月20日 | Lou Music & Films

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★記憶に留めておくためにも

 10年前に記したものをリプライズします。

 

 

あの日に何があったか。

知らない人はいないだろう。
自分だって、巻き込まれていたかもしれなかったのだから。

当時の自分は大学5年
すでに報道ニュースの現場でアルバイトとして働いていた。
 

1ヶ月前(1995年2月)に制作会社に就職が決まり
報道ニュースの仕事もあと少しという頃。

何かあればすぐに動ける心の準備はしていた。
”何か”とは今でいうところの”有事”

この年の1月、阪神大震災があった。

卒論を必死に書いている最中にTV局のバイト仲間から電話が。
「TVを見て!」

TVスイッチを付けた瞬間、画面には高速道路が横倒しの様子が映っていた。

卒論はどうでもよくなった。

すぐに報道フロアにかけつけ

まる1日スタジオを仕切っていた。

”有事”を伝える側の心構えは

その時に養われていたのかもしれない。

 

TX(テレビ東京)にはいつも9時に入ればOK
でも、この日はなぜかわからないが
いつもよりかなり早くマンションを出ていた。

あの頃、新宿から乗る丸の内線はよく遅れていた。
数日前から前兆があったのはわかっていた。
それを確かめたかったのかもしれない。

あの日の前日、早めに目覚ましをかけて寝た。

「あすはいつもより1時間は早く行こう。」

しかし家を出るのが遅かった。

それが幸いしたのかもしれない。

 

京王線・新宿駅西口改札を8:00には駆け抜けたかったが、

実際に駆け抜けたのは8:20すぎ。

そう、

あの忌まわしき出来事が
起こっていた時間は過ぎていた。

 

丸の内線ダイヤはすでに乱れていた。

ホームに入ってきた車両に乗り込むも速度が遅い。

ついに赤坂見附駅付近からまったく動かなくなった。

20分、30分待てども動く気配はない。

すると、国会議事堂前駅で全員下車というアナウンス

「いったい何が…」

駅に到着して改札を抜けとにかく猛ダッシュで地上に上がった。

どの出口から出たのかまったく記憶にないが、

その出口で、いままで見たことのない光景を目撃した。

 

霞が関方面から必死のに逃げる人たち。
表情を見れば映画の撮影ではないことはわかった

空は曇天

激しく鳴り響くサイレンの音

しかも人の数が半端じゃない

まさに異様だった

悲鳴が聞こえたのと、自分も頭が痛かったことを覚えている。

「局へ急がなくては」

米大使館→ホテルオークラを横目に走りながら

坂を下って神谷町へ。

ホテルオークラから下る坂道の先

TX建物の奥にある神谷町の方角

そこにも無数の人の波が。

異様な光景だった。

局に着くと、通常番組を差し替えて生中継になっていた。

すぐに報道フロアへ

バイト仲間と交代しスタジオを仕切る

神谷町駅でも事が起こっていたことをスタジオのモニターで知った。


その日は何時間フロアを仕切っていただろうか。
次々と入る現場の様子と事件内容に驚愕すると同時に
阪神大震災で経験した

伝える側という冷静さ
怒りと怖さの震えの方が強かった。

夜、志願して聖路加病院へ中継に行った。

どうしてこんなことが起きたのか。
とにかく知りたかった。

運び込まれてきた人たちで埋まっていた通路には

ほとんど人がいなかったが

院内建物内の進入禁止通路の先で

まだ治療中の方が何人もいることを聞き取った。

伝えることが「使命」だと誓った日でもあった。


いつ 誰が 何を どこで なぜ
この姿勢はいまでも変わらない。

3月20日は忘れない

忘れるわけがない。