ODAちゃん ありがとう。 | Lou Music & Films

Lou Music & Films

Official Blog

サークルの同期が亡くなった。

毎年11月はワクワク・ドキドキの時期。
母校・法政大学の学園祭。自主法政祭。11月23日前後の4日間のお祭り騒ぎ。
この学祭のために、すべてを懸けていたといってもいい。
Ⅱジャズ研究会での学祭は、ほんとうに楽しくて、当時のVHSや莫大なテープを聴けば、
すぐに、あの「熱狂」と「興奮」の中に浸ってしまい、眠れなくなってしまうほど。

学祭は8年前に11月23日前後から11月3日前後に移動してしまったけど、
11月23日辺りは、いまでも心の中ではソワソワしてしまっている。
そして11月23日は、妻の誕生日&挙式記念日が新たに加わった。嬉しい限りです。

たしか今年がサークル50周年。
なので、それまでムリしてOB会に行かなくていいと思っていた。
学祭期間が終わった11月上旬の夜7時ごろ。
特集VTRの編集を終えて、自宅マンション隣の駐車場に車を止めたとき、
スマートフォンに電話がかかった。
画面には…懐かしい。
札幌にいる、サークル同期からだった。
学祭のあとだったから、
市ヶ谷に行って久しぶりにサークルに顔を出したのかと想像していた。

お互いのことや、最近の話などを一通り話して、
「あのさぁ」と、同期は含みを持たせるように切りだして出た
次の一言は衝撃的だった。

「ODAちゃんが亡くなったよ」

冗談かと思った。


Ⅱジャズ研究会の奴らは、演奏はマジメにやって、
それ以外はバカなことばかりやっていたし、
俺たちにしかわかならい、俺たちなりの会話があって、
「うそだろ?」ってことも平気で笑いをとったりするぐらいなので、
冗談だと思っていた。
会えば、話せばいつものこと。
卒業から18年経っても、である。



ODAちゃんは2年生の時にⅡジャズに入ってきた。
滋賀出身で関西弁しゃべるけど、もの静かな印象だった。
法政大学Ⅱ部は、授業は夕方からだったから、昼間は好きなことができたけど、
ほとんどの連中がバイトなどをしていて、俺は広告代理店でアルバイト、ODAちゃんは
運送会社で働いていた。
夕方から授業に…なんだけど、あんまり授業に出た記憶がない。そりゃそうだ。
Ⅱジャズの部室、BOX523に毎日入り浸っていたから。
ODAちゃん、白シャツに革ジャン&ジーンズ。伸ばした髪を後ろに束ねて、
涼しそうな顔で6弦ベースを奏でる。

ムリなことばっかりお願いしたなぁ。
1音1音のつなぎを、もっととぎらせないようにして、ソフト目にとか、
サンボーンの曲やりたいから派手にチョッパーかまして、
しかももっとテンポ早くとか…。BOXでの練習風景が今も忘れられない。
平日は夕方18時ごろから23時すぎまで練習。
土日も練習してたけど、毎日やってても飽きなかった。

俺が住んでいたのは府中、ODAちゃんは落合。
市ヶ谷から帰る方向は一緒なんだけど、俺は都営新宿線or総武線なので市ヶ谷、
ODAちゃんは東西線だから飯田橋。
別方向、といいながら、飯田橋・神楽坂方面でよく飲んでたなぁ。
他にもいっぱいいっぱいある。
大学時代の仲間は、喜怒哀楽を共にした、かけがえのない存在。
いつ会っても、一瞬でその時代に戻れる。とにかく想い出がたくさんありすぎて、
ここには書ききれない。



ODAちゃんと一番仲が良かったのが、電話をかけてきた札幌にいる同期。
また何かやらかしたのかと思っていたところに、衝撃の知らせ。
いやいや、冗談でしょ、と言ったあと、
電話口の同期は、しばらく黙った後、
全く変わらずに続けて「ODAちゃん亡くなったよ」同じことを言った。



ODAちゃんの奥さんからの連絡だったそうだ。
翌朝起きて来ず、そのまま亡くなっていたと。
俺もよく笑うが、俺以上に顔をクシャクシャにして笑う、
あのODAちゃんがそんなまさか…。
連絡も衝撃だったが、
さらに衝撃を受けたのは亡くなってから2か月も過ぎていたことだった。
ちょうど2か月ほど前のODAちゃんのFacebookには、
稲刈りの様子を伝える写真とコメントが掲載されていて、
日付を聞くと亡くなったのはその後だったと…。

慌てて他の同期や先輩後輩らに連絡をした。
亡くなった知らせを受けたその日も、仕事をしているときも、
ライブの時も、年が明けても、まだ信じられなかった。
それを確かめるために、
今月11日、先輩・同期・後輩ら5人と滋賀県彦根へ向かった。

ODAちゃんに会うのは何年振りだろう。結婚したときは嬉しそうだった。
滋賀・彦根と名古屋は近いから、99年に当時の彼女と、
一宮にいる同期と一緒に遊びに行ったこともあったなぁ。
そういえば去年、1度電話で話したんだった。

「おー太田先生。毎度。ウイッス」

挨拶はいつもウイッス。いつもそう。


仏壇に飾られた写真、戒名、墓に刻まれた名前を見て受け入れるしかなかった。
ODAちゃんと一番仲が良かった、札幌から駆け付けた同期は、
しばし言葉を失っていた。

仕事が激務だったこと。ほとんど休んでいなかったらしい。
でも、ベースはちゃんと弾いていた。セッションには行ってなかったようだけど、
尊敬していたベーシストの教本と、スタンダード本がきちんと並んでいた。
思い出を聞くのはツラいと知りながら、
東京にいる連中から必ず聞いてきてくるように念を押されていたけど、
晃子さん、ほんとうに大変だったよね。話してくれてありがとう。
俺たちが集まると、大学時代のバカな話や大笑いすることしかできないけど、
ツラすぎて、それ以外できん。

ODAちゃん。ありがとう。
大学時代に一緒に演奏できてうれしかった。
想い出はありすぎてつきないけど、わずかだけど、ここに記します。
ODAちゃんの分まで生き続けて、演奏し続けます。