落ち込む時は徹底的に落ち込んで、怒る時は徹底的に怒ればいい。中途半端だからいつまでたっても物事は変わらない。自分がいつまでたっても報われない、と嘆いている時間があるならば、徹底的に開き直って尽くし切ればそれが転じ、自分の向かうべき方向に勝手に進んでいく。

 

世の中というのは、開き直る人間が一番強いのだ。

 

物の見方、物の考え方を極端にしていけばこの世の中はおもしろい。結局、極限まで行けば反対に転じる。人はいつまでも落ち込んでもおれず、人はいつまでも怒ってはいられない。自分が物事を無理やり動かそうとしなくても、勝手に物事は動いていくようにできている。

 

 

なぜならば、この世界は常に振動と共に在るからだ。この振動を一側面的に多面的に説明するのが陰と陽である

 

わたしたちのこの世界を作り出した神様(自然の法則)は、言霊という振動を作ったのである。振動とは、振幅であり、周波数であり、共振だ。この紛れもなく科学でも証明されているものこそ、目に見えない神の力だ!!!

 

 

言葉があるのも、音があるのも振動しなければ何も伝わらないし、感じることはできないのである。

 

 

揺れが大きくなれば、その分の反動は大きくなり、周波数が高くなればより細かい波長が生まれ、共振が生まれればそのまま小さな力がビックバンを起こすほどの大きな力になっていくだけなのである。小さなものも、周波数が合い共鳴しあえばそれはすごいエネルギーになり、人はそれを奇跡と呼ぶのである。

 

 

表に出ているものが大きければ大きいほど、その裏には小さな共振が潜んでいて

 

小さいものでも周波数が合い、力を持てば持つほど爆発力を持つ。

 

 

今という時がその点だけで起きているのではなく、わたしたちのこの瞬間瞬間に振動している何かがあって、それが様々な方面に向かって進んでいる。

 

 

その方向を決めるのが【自分】だが、悲しいかな、わたしたちの心には様々な要因が含まれており、自分の中にも様々な自分が存在している。

 

 

確かな自分を掴むためには【我】がない方がより細かな安定している振動になりやすく、【我】がなければ共鳴しやすい。素直でけなげに天の振動と共鳴した人や物を⦅奇跡の人⦆と呼ぶ。

 

 

わたしたちの我や自我、エゴ意識、執着はこの振動にとって雑念という形で素直に共鳴できない振動を作り出している。言葉に振動を載せる時、罵詈雑言の振動と、愛と感謝の振動ではまるで違う振動になる。

 

 

しかし、理解できないかもしれないが愛と感謝の振動もまた、罵詈雑言の振動となる場合もある。それらは、わたしたちが何を思い、何を考え、何を目的にその言葉を使うかは想念が働いているからだ。そして、この『想念』そのものがこの世の中を動かす振動を生み出すからに他ならないのである。

 

結局、わたしたちは振動の中で生き、振動によって支配され、振動の中で生まれ育ち、振動の中で死んでいくのである。だからこそ、この高振動のバイブレーションの源である祝詞を読み、振動数を変化させるために日々取り入れる意味がある。

 

読み続けることにより振動を高振動に合わせ、その振動数をキャッチしやすくし、感度を高くしつづけていくことでわたしたちは徐々に変化をし、どんどんと見方が変わり、世の中の向き合い方が変わるとこの世界が《こんなに素晴らしい世界だったのか》とわかる、たったそれだけのことなのである。

 

そして、それはネットの世界もしかり。

 

素晴らしい言葉、素晴らしい情報が限りなく少なくなっている中で言葉の中に含まれる振動の何をキャッチして、何をキャッチできないかでも全く違う人生になっていくのだから面白い。

 

 

この世のすべては非効率なものほど、効率がいい!!!

 

五感がすべて

 

五感を磨くことほど、非効率だが自分の人生をより豊かに、効率よく生きていくために不可欠なものでこれ以上でも以下でもない

 

 

自分の心次第で見方が変わるのだぞ、との御神諭通りであり、精神世界であり、物理学なのです。

 

 

すべてが融合され、統合された世界というものは素晴らしいのです!!!

 

結局わたしたち人間も、周波数が合うもの同士が繋がりあい、共鳴し合っているに過ぎない。五感を磨けば、この振動数(動いている世界の流れ、見方、その大きさ、小ささの向かう方向)がすべて見える

 

 

とはいえ。

 

その共鳴力が薄れているから、この世界で「神はすでに人間を見放した」などという霊能力者がいるけれど、神は人間を見捨ててはいないのである。

 

 

わたしたちがまだ息をしているうちは、見放すことはない。

 

人間が神との共振を忘れ、振動が低振動になり自ら神を見放しているだけでなのである。

 

 

こんなに自分の目の前に存在している数多くの振動であるバイブレーションに気が付かないのもおかしいが、普通に考えたらそれが神だとも思えまい。この世界は大宇宙であり、大自然であり、そして本物の神が平等に与えた生命を維持するために与えられている天のエネルギーという大慈悲に支えられ、そしてそれを利用し我々は生きているのである。

 

人間とは肉体が器だからだ。本当はまるでからっぽで何もない。エネルギーがなければわたしたちは動くこともできず、しゃべることもできない無能な生物なのである。

 

 

空っぽだからこそ、無限絶対、無私無限のエネルギーが器にたまる。しかし、それをいつまでも自分で抱えて居てはおられない。

 

天のめぐみ、おかげであるものを他者還元してはじめてその無くなった場所にまた新鮮な徳が溜まっていく。その徳を水と例えれば、循環するから水がいつまでもきれいなのである。しかし、共鳴を忘れて力を無くしてただの中身のない器に成り下がり、自分だけでその与えられた水をいつまでもためておるのは汚水に変わっただけなのである

 

 

人に対する敬意や人に対する礼儀を忘れ、自分だけよい、自分だけがしあわせならよいではだめで、そして、逆に誰かが何かを間違えていたとしたら正しい道に歩ませてあげられる人もまた、新しい水が与えられ、どんどん潤うようになっている。

 

 

その天のエネルギーであるバイブレーションが支配している限り、わたしたちはこの法則からははみ出すことはできないのである。