「……さとる?」

 

 

幼い声が、静かな部屋に落ちた。

事前に名前を聞いていたのか、さとる、と呼び捨てで。

 

 

侍女に手を引かれたまま、

少女は一歩、

また一歩と前へ出る。

 

 

旦那様が静かに口を開いた。

「梨絵だ」

 

 

その一言だけで十分だった。

この家のすべてが、その小さな存在に集約されている――そう悟らせるには。

 

 

 

 

 

奥様が、やさしく微笑む。

「梨絵、新しい方よ。ごあいさつできる?」

 

 

少女――梨絵は、少しだけ首をかしげる。

けれど次の瞬間には、迷いなく悟を見上げていた。

 

 

まっすぐで、曇りのない瞳。

値踏みも、遠慮もない。

ただ、そこに“いる人”をそのまま受け入れるような視線。

 

 

「……さとる」

今度は、はっきりと名前を呼んだ。

侍女が小さく息をのむ。

旦那様の眉が、わずかに動く。

 

 

悟は静かに膝をつき、少女と目線を合わせる。

「はい。悟でございます」

 

 

その声は、先ほどと同じく落ち着いている。

 

 

だがほんのわずかに、やわらかさを含んでいた。

 

 

梨絵はじっと悟を見つめる。

そして――「だっこ」と、ためらいもなく両手を伸ばした。

 

 

その無垢な仕草に、空気が止まる。

 

 

本来であれば、許されるはずのない距離。

初対面の使用人に対して向けるものではない。

 

 

侍女が一歩、前に出かける。

だが、その前に悟はすでに動いていた。

 

 

「……承知いたしました」

自然な所作で、梨絵を抱き上げる。

 

 

あまりにも軽い。

その体温だけが、腕の中に確かに存在している。

 

 

梨絵は安心したように、悟の肩に小さく顔を寄せた。

 

 

その様子を見て、奥様が静かに息をつく。

「……この子、こんなふうに自分から誰かに甘えること、ほとんどないのです」

かすかに震える声だった。

 

 

旦那様は何も言わない。

ただ、悟を見据えている。

試すように、託すように。

 

 

そのすべてを受け止めながら、悟はただ一つの事実を理解する。

 

 

この腕の中にいる存在が、この家の未来であり――そして、自分が生涯をかけて守るべき人であるということを。

 

 

 

 

悟はわずかに目を伏せる。

 

 

誰にも聞こえないほどの静かな声で、心の中に刻む。

(この方を、お守りする)と。