こんにちは。


ヨガのインストラクターのお仕事をさせていただくようになってから、人に対してあれこれ心配をすることは、実はその方のためにはなっていないな、こちらの勝手な都合なのかな?ということを考えるようになりました。


とりあえず「心配」という気持ちを相手に向けた途端に、その方の具合がどんどん悪くなるということもあると思います。病は気からですから、心配というネガティブな気持ちを相手に向けないほうが良い気がします。


また「人を心配する=自分を正当化している」ということではないかとも思います。


もし具合が悪い方がいたときに「大丈夫ですか?」と心配そうにしておけば、もしその方がもっと具合が悪くなったときに「だからあの時心配したんですよね~」と言えて、面目が立つ、というか…。


まるで自分の正当性をアピールしているようで、それは責任逃れだったり、保身だったりするのかなと。相手のためではなくて、自分のために心配してるように思います。


また「良くなってほしい」という気持ち=「悪いままではダメだ」という気持ちになりかねないと思います。心配して相手を大切にしていたつもりが、実は相手を否定していることにつながるのかもしれません。


そして、これは生徒さんに対してだけでなく、子どもに対しても同じかなと思います。




ちなみに先日こういうことがありました。


うちの下の娘(小1)が、先日発熱&下痢をしていて、体重が一時的に落ちました。ちょうどその頃に学校で体重測定があり、1学期より1キロ体重が減っていました。


「あら~」と心の中で心配していたら、娘にバレてしまったようで、娘は凹みながら「私、病気なの?死んじゃうのかなぁ?」と言い出しました。


慌てて、「大丈夫、大丈夫」と伝えて、何とか娘は復活しましたが、「死んじゃうのかなぁ」と言った時の娘の顔は、本当に覇気がなくて、ビックリしました。


もしここで私が「心配だね」と、娘の後ろ向きな気持ちに同調してしまったら、彼女の心配事はさらに膨らんでどんどん気持ちが病んでいくだろうなぁと思いました。


私が心配することで、私の「親としての責任」は果たせたとしても、娘のためになっているかは疑問です。


私は娘が痩せていようが太っていようが大好きですが、あまり心配し過ぎると「ママは痩せた子は嫌いなのかな」と思われてしまうかもしれません。




ヨガのインストラクターとして、生徒さんの体調をしっかり観察すること、親として子どもの様子を観察することはとても大切なことです。


見たことを無視して「見なかったことにする」のは、結局は「見たことを否定している」ことになりますから、事実は事実として受け止めなければならないと思います。


でも、見たことに対してあれこれ気をもむ必要はないし、ジャッジをする必要もないと思います。


健やかなる時も、病める時も、いつもみんなスペシャルな価値を持っていて、その事実はどんなことがあっても揺らぐことはありません。


どこか具合が悪いところがあったからといって、その方の命の価値が下がるわけでは決してありません。


同様に、もし私が具合が悪い方に対して何もサポートができなかったとしても、私の価値は下がりません。


(逆にサポートできたからといって、価値が上がる訳でもありません。最初からスペシャルな価値があるので、これ以上変化しないのです。)


具合が悪い人に対して「心配」という名のジャッジをすることは、見方を変えればこの「変わることのないスペシャルな価値」を見ずに、表面だけを見ていることにつながるのかもしれません。




もし、うちの娘の体重が増えていかなくても、娘は私たちにとってスペシャルな存在であることに、なんら変わりはありません。


でも、できればすくすく育ってほしいので、できる限りのサポートはします。


ただ、それだけなのです。




ただ、表面だけをみて、症状ばかりに気を向けること(心配すること)と、その方の本質を尊重したうえで、表面で起きていることをまるごと受け入れ、サポートをすることは、パッと見は同じように見えても実は全然違います。


心の目で人を見るというのは、こういうことかなと思ったりします。


心配してジタバタするのではなく、丸ごと受け入れてきちんと対応できる「器の大きい女」を目指したいです。