お釈迦様は、この世のあらゆる問題をたった一行で解決できると説かれました。
生きる秘訣は、人に聴くのではなく、この瞑想を試しにやってみなさいと、スマナサーラ長老は仰ってますが、瞑想って座ることすら、ちょっと大変だったりします。
でも、自分の人生をよりよく生きたい、変容したい、今の苦しみから抜け出して幸せになりたいと、本気で思うなら、実践する価値は大いにありますね。
なぜなら、お釈迦様の教えは究極だから。
科学的に立証されてますが、救済は悟りの意識レベルで測定できるものではないので、かっちりとココと、決まっているものではなく、観念的なものだといわれています。
本質を解っている教会の牧師さんは、ヨガをされている方もおられるそうです。
この慈悲の瞑想というのは、あらゆる生命が対象であり、自分も他者も、幸せでありますように、という慈悲の心を育てる瞑想になります。
神々であろうが、悪魔であろうが、地獄の生命でも、餓鬼道の餓鬼たちでも、何でも誰でもいいのです。
家の中に入ってくるカメムシとかね。今度、無断で入ってきたら、やさしく声をかけてやりたいものです。
『魂のピアニスト』と呼ばれたフジコ・ヘミングさんは、有名になるまで暮らしが貧しく、家の中に入ってきたゴキブリに歌ってたと、御本人が話されてましたね。
母はよく戦争のドキュメンタリー番組を観るんですが、過去の戦争時代においても、幼い子どもたちが麻薬を飲まされて拳銃でお婆さんを殺害したりと、悲惨な出来事が起きてしまうのが、この世界なんですね。
内面の努力はできても、ネガティブな感情は決して消すことはできない。
争いを好まない人でも、外側に出さなくても腹を立てることはあるし、賢者は怒りの感情の静め方を知ってて、鍛える努力をしてる。
私の妹はとても賢くてですね、感心しますよ。
『腹立てたらストレスになって疲れるだけやん』
難しければ、家族だけでもいいと、スマナサーラ長老が動画で解説されてますが、あまり、子どもとか具体的なことは思い浮かべなくていい、ということでした。
❤️🩹親くらいは具体的に思い浮かべてもいいけれど、あれこれと特定の人を思い浮かべると、慈悲どころじゃなくなるので、腹が立ってくると。確かに、モヤっとしてくることはあります。
自分が知っている人々を対象にして慈悲の瞑想をすれば、なんとなく実感が生まれる、慈悲が入ったら「慈悲が働いてますよ」と、効き目のある瞑想、有効な瞑想であるというのは、私自身少し実感してます。
❤️🩹でも、この瞑想というのは、ご利益的なレベルでなく、かなり超越した瞑想なんですね。
❤️🩹注意しておかなければならないのは、論理的に仏教は神に祈る、おねだりする、というのは無いということ。
誠意を持って念じることで、初めてだれにもめげない自信のある人間になる。
気持ちが揺らいだりしない。
怯えなんかは、もうキレイさっぱり消える。
緊張なんかは、もう何も味わったことがないという事になる。
強烈な落ち着いている広い、無限に広いすごい人間になる。
幸せでありますようにというモットーを持って生活すると、対立は消える。
モットーを決めた途端に自分の生き方が見えてくる。
祈りと念じるには違いがあるということを解説されてる動画になります。
祈りは、神や人が対象になる。
念じるは、対象がない。
祈りの行為は、消極的。
念じるという行為は、積極的。
慈悲の瞑想の『○○になりますように』というのは、祈りだと勘違いしていました。
水瓶座の私は実践しながら学ぶタイプなんですよ。一つの動画ですべてを解説されているわけではないし、実践者からの質問に答えて解説されてますから、焦らず少しずつですね。
瞑想の時間を伸ばすのも1分単位で伸ばすことを勧められています。
祈りも念じることも、どちらが欠けていてもダメだと私は思ってます。
私なんてちょっと入口をまたいだぐらいの人ですけど、聖書についても、毎日少しずつ触れて、本質的なところを探っていきます。
この写真素材は、私が、図書館の広場の木の樹皮を写真に収めて加工したモノです。
木は、厳しい気候や、虫や動物の害から身を守り、ある種の樹木では、鎧(よろい)として、火からも守ります。
外樹皮(樹皮の外側の部分)は、死んだ細胞であるコルク組織でできています。