このお話は、私にとって

『すべてのものは 無限の光のひとつの意識から生まれている』

ゆえに

『どんなに闇に見えても光じゃないものは ひとつもない』

という、今のところ長らく不動の “自分軸” の 

となっている 大切な夢の話であり


私は この光の意識のことを『根源』と呼んでいます。

これは、だれにとっても

『自分の根源』であると同時に

『宇宙の根源』であり、ゆえに

『すべてのものの根源』としての共通の根源です。。

と、なにやら言い切ってる感 満載ですが(^^;

『あなたにとっても絶対に そうなんです!』

と言い張りたいものでは、もちろんなく

“私にとっては” 言い切れるほどにそうなんです

というだけのことです(^^)


それは宇宙で

『唯一、生まれたことのないもの』 ゆえに

『有るという“状態”ではない 唯一の“存在”』 

唯一の『状態ではない存在』であるために

唯一の『有限ではない存在』であり

『唯一、無限の存在』です。


その存在は

私たち人間の、身体=細胞=素粒子はもちろん

宇宙になんらかの“状態”として

有るもの『すべての中に遍在』しており

また、その視点から観たとき私たちの中には

『すべてが内在』していますが


ここで言う『有るもの』とは

現在の私たちの目に見える・見えない

に関わらず、根源から派生している

『固有の状態』を経験中の 意識を含めた

すべてのもののことです。


地球上で身体を持って生きている以上

私たちの『意識』というものに

あの手この手で 多分に取り込むようになっていた

『唯物主義的成分』=『根源忘却成分』=『意識の分離成分』

のようなものが

私たちの“意識”の中にさえ『』の幻影を作り出し

その意識においての 陰と陽との境目に

分離成分が どんどん注入されていくことによって

『意識においての二元性☯』のコントラストの濃さは増していき

意識に濃厚な『陰』という幻影の影をつくり

私たちは、いったんこの『自分の根源』の本来の『光』を、

深く忘れる“状態”になるようにできていますが

(と、感じていますが)

この忘れた意識の状態は『状態』であって、

状態というものは『有限』であり

私たちの意識の自然な在り方は、本来

『有限』の『状態』ではなく

【無限】の【存在】です。(私にとっては🙂)


忘れるようにできていたのは

とてもざっくり言うと『分離の経験のため』だと捉えていますが

その分離の経験の『極』の時期は、とっくに通過しており


ゆえに人が、この『分離の経験の時代の終了』に気付いて

自ら、意識の☯の、境目に注入されている

『唯物主義的成分』=『忘却成分』を除去していくと

最終的に自分の中に発見するのが、

この『根源』という光である唯一の存在です。


と 私は想っています


例えば『無』(意識も光も無いほうの無)などを

宇宙の始まる前の様子としている話のほうが

もしかすると多いのかもしれないですし

(読書嫌いなので、どんな書き方の本があるかはわかりません)

なんのことを『無』と呼んでいるのかも

本当に人それぞれだろうと感じますし


その『無』自体を。あるいは

その様子の中に元々在った意識、あるいは

そこに最初に生まれた意識のようなものを

根源と呼ぶ人のほうが多いのではとも思うのですが

(創造主と呼ばれていることも多いかもです)

その点において

『無』なのか『光』なのか

『無から生まれた光と闇なのか』

などの部分に 私は拘りはなく


この夢から教わった最も大切なことは

この宇宙になんらかの『状態』として

『ある』という、すべてのものの中に

『 “元が光” ではない』ものは『ひとつもない』

ということであり


そこが私にとっては 』 とても重要な部分です。

そして今のところ

変わらずそう感じています。

⬆この点については、こちらで 細かく書いています⬇

以下、簡略化のために

『言い切り風』に書いていきますが

すべて『私にとって』『現時点では』

そのようにみえている。

感じている。

思っている。


という意味でしかないことを

忘れず念頭にお読みください🐳


その『根源』は

身体を持って生きたままでも

再会を果たすことが可能なものであり

なぜなら

誰にとっても 等しくずっと

自分の中にいる存在であり


その存在のことを『知らない人』というのは

一人もおらず

ただ忘れているだけのことだからです。。


という話を あらゆる角度からするために

開設してみたブログなので

このお話も、大切で

少し長くなりますが(^^;


『どうして宇宙が生まれたのか』

『人間とは 何なのか』


というような

すべてのものが繋がっていて

ひとつであることを

思い出しているとしても なお、

果てしの無い感じの

私たちの疑問に対する、あくまでも


『変わった想像のうちのひとつ 』


としてだけでも、もしかして

面白いかもしれないので

1回だけ ぜひ がんばって

読んでみてくださると嬉しいです。


この話を人に話すことは 

『思い出す』という大切な作業の

『妨害』にあたるような


話してはいけないことのような 


なおかつ、この世の

物理的二元性のバランスや

あらゆる陰陽のバランス

『陰』の大切な役割りを否定する

『光大好き』『光びいき』ビト

勘違いされそうな気がして

(それだと伝えたいことの真逆になってしまう)

人に話したことは なく


私にとっては、明るいところの空気と

暗いところの空気を

どちらも『空気』と呼んだら

『空気びいき』と言われるような

そんな感じで

そういう意味ではないということを

もっと上手に説明できるようになるまで

人に話さないほうが無難である話。


と、長らく思い込んでいたのですが


そもそも人から見れば 

単なる『人の夢の話』以外の

まったく何ものでもない話なんだから

物語と まったく同じなのであり

そんなこと何も一切

気にする必要なんてないのだ。あほか


と、ここ数年で

やっと思えるようになりました笑

(すごい遅い)


宇宙の始まり方は、人の数だけ

人それぞれにあるのだろうし


いろんな人の『宇宙の始まり』を

お互いに観て、聞いて


あれ?ここの部分は共通してるね🌈

という部分をみつけたり


たしかに!そういう捉え方も素敵だね

という部分をみつけ合ったりするために


私たちは『固有さ』というものを

もっているのではないでしょうか🙂


ついでに念のためブログ趣旨です⬇


と、いつも本当に

前置き長くてごめんなさいですが💧

とにかく 私にとっては

なにか『もの凄く大事なこと』のように思えてやまない

光以外に何もない無限の空間

(正確には空間とも呼べない)が

果てしなく“自分の意識”だった 夢の話です。



正確には ただの夢とも違うのですが

とある “CD” を聞きいて誘導されながら観た

夢の領域

あるいはVisionの領域での お話。


〜2001年(9.11の年)のこと

それは ひょんなことから手にした

『幸せな過去生をみる』という感じの題名の

 瞑想を誘導するCDだったのですが、

当時『瞑想』というものを

『よし瞑想しよ』

という心持ちでしたことはなく

自動的な瞑想状態は多々あったのだと思いますが

ほんとに観れることなんてあるのかな。。?

と、疑っているくせに わくわくと

寝る前などに 時々聞いてみては いたものの

3〜40分間ほどだったような気がしますのそれを、

なっか なか最後まで聞くことができず(^^;


最長でも 15〜20分ぐらいのところまでで 

どうしても眠ってしまうため、

このようなCDあるあるなのでしょうけれども

長らく安定の『睡眠導入CD』と化していました。


そして最後の方まで聞くことができたのは

このときも完全な “最後まで” は聞けていない(^^;

今回書く この夢を観たときが

最初で最後となり、

『何時代の何してる人』のようなものは

一度も観ることなく終わりました。

当時2歳ぐらいだった息子がCDプレイヤーを上手く開け

DJのようにギコギコしてくださったからです。

入れっ放しの置きっぱなしが悪いです笑 はい。


その CDの女性の声の誘導の

リラックスへの導き方が優秀であったのだと思いますが

言われた通りの 呼吸と意識で全身の力が抜ける頃には

幽体が離脱する直前の『頭は起きてて身体は爆睡』状態

(いわゆる金縛り状態みたいな感じです)に

かなり近い状態に、たいていの場合 なっていました。

幽体の離脱や、金縛りについては

怖いことでも不思議なことでもなく

睡眠と同じぐらい、おそらく人の自然な現象であることを

書いているので、よかったら覗いてみてくださいね⬇(^^)


そして、Visionの中で

言われるままに歩き出すと

裸足で草を踏んで歩く その感触を

足の裏に感じながら進んで行き 

森が見えてきて

その森の中へ入って行くよう言われます。。


森の中を歩いていると 花が咲いていて 

その 色を訊かれたり 香りを嗅いだり

小川があって

その水を両手ですくって 飲んだり

その水が身体の中を通るのを

しっかりと感じたりしながら

途中〜光の卵のようなもの。。だったと思うのですが

なにか、そのようなもので自分を覆い

それは、そこから先の領域で

余計なものが寄って来ないよう?

ガードするような役割のものだったと思います。。

プロテクト的な

という、ところらへんか

そのずっと手前で、毎度 頭が眠ってしまっており

そこから先の記憶が残っていることは

ほぼ 皆無でした。


そんなある日 、上記の通り

後にも先にも たった1度だけ

最後のほうまで聞くことが出来たときのこと。


途中までは、いつも通り誘導に合わせた

想像のVisionで進んでいたのですが

いつの間にか 夢の中で夢とわかっている

明晰夢のような観察の仕方になっていました。


私の感じる あくまでも私の感じる

『想像のVisionの観察』と『 明晰夢の観察』の違いを

おおざっぱに言い表してみると

後者のほうが、より視野が広い感じで

鮮明さや 五感のリアルが増す感じであったり


前者は『想像しよう』とする意識が

ちょいちょい顔を出しやすい領域で


後者は、まったく想像しようとしなくても

勝手に光景が展開されていく感じです

伝わるでしょうか。。(^^;

でも夢ってそうだよね


そして その

光の卵のようなもので自分を覆ってから

さらに進んでいくと そのうち

『家が見えてきます。。どんな家ですか?』

のように訊かれ、みてみれば


それは なぜか高床式のログハウスのような建物でした。

近付くと 梯子などではなく

ちゃんと階段があったので

『いいのかな。。』と思いながら階段を上がりました。


そして

家の中に入るよう 促されるため

けっこうな大声で

『ごめんくださーい!』と言いました。

しかし応答は無く。


『勝手に入って大丈夫なのかな。。』

心配しながら

木のドアを開けると 中は かなり薄暗く

部屋の広さに対して小さめな 窓からさす光と

自分が開けたドアからさす光だけで

中の様子を窺うような感じでした。


そこは 今で言うところの

ダイニングキッチンの役割のような

様子の部屋であり

大きくて長めの

手作りのような木のテーブルには

湯呑みのようなものが置いたままになっており

それら(テーブルや湯呑み)には 

ホコリを被っている様子もなく

なぜか、人が『1人』現在 住んでいる家である

ということが なんとなくわかりました。


〜住んでいるフリだったのかもしれませんが〜


あんまり とくに『幸せな過去生』という

印象のない

孤独でシンプルな 

生活感の少しだけある 薄暗いその家を

“懐かしの我が家” のように感じることはなく


いるか いないか わからない家主に対し

『入りますよ』という ことわりのために

これまた けっこうな大声で

『おじゃましまーす!』と言いながら、

中に入りましたが


相変わらず

とくに返事も気配もなく。


テーブルを挟んで 

だいぶ向こう側にある

その小さめな窓の下は

炊事場っぽくなってるらしいのを

なんとなく横目に見ながら

その部屋を通り


どんな人が住んでいるのか

知りたいような

知りたくないような。。

勝手に人が入って来て

ビックリさせてしまったら

かなり失敬であり 申し訳ないよな。。

という気持ちのまま、

一応『入りまーす。。』と言いながら

恐る恐る そっと進み


その部屋を通過すると

廊下になっていて

その廊下には 窓が ひとつも無く

いっそう暗くなっていましたが

なぜか いちばん奥のドアから

放射状の筋に漏れている光があって

雲間からさす太陽光のような感じを

横向きにしたような感じです

その光によって、廊下の左側の壁沿いに

いくつかのドアが並んでいるのが

なんとか見えている。。

という感じでした。


たしか

『いくつかのドアがあります』

のように言われたから

いくつかのドアがあったのだと思いますが、

そのうちの どれかのドアを選んで

開けるよう促され

私は迷わず いちばん奥の、その

光が漏れているドアの前に立ちました。


どうして 

そのドアだけ光が漏れているのか

単純に気になったからです。。

同じ状況に立ったら

きっと誰もがそのドアを選ぶでしょう


ドアの前に立つと

そのドアの 上半分の面には

なんと説明したらいいのか

花のような 花火のような。

大きくて とても精妙な

『なんじゃこりゃ!?』と驚くほど 美しい

透かし彫りが施されており

そこから光が漏れていたのでした。

この 20年程の間に見つけた中では

“花曼荼羅”や“糸曼荼羅”と呼ばれているような

模様たちが、いちばん似た雰囲気です。。


そして、このシーンは

心に浮かんだセリフが 

あまりにもキザ男すぎて恥ずかしく

人に言うことも書くことも、

かなり躊躇う感じなのですが 


その 透かし彫りから漏れる

光の筋の中に

暗い部屋で映写機を投影しているときの

光の筋の中に見えるような

小さな埃のような 

塵のような 粒子のようなものが

ランダムに たくさん舞っているのが

見えたとたん

なぜか ものすごく嬉しいような

懐かしいような

泣きそうな気持ちになり


思わず右手をそこへ差し出して

その、なぜだか なんとも

強烈に愛おしい気持ちにさせられる

塵のような 

キラキラと嬉しそうに舞うものたちを

右手のひらの 少し上に 

受けとめるようにして 眺め

あいかわらず この世は なんて愛おしい』と

強烈に自分の胸で感じると同時に

そう感じているその男性を

横から見ている

と同時に

私はその男性自身でもありました。


見ていると言っても

姿がハッキリと見えているのではなく

なのに『男性だ』とハッキリわかる。

という感じです。


そして

透かし彫りの掘られている部分を よく見ると

その木のドアの厚みが

6〜8cm程あることがわかり

あまりの分厚さに

『すごい重そうだけど開けれるのかな?』

と思いながら 開けると簡単に開きました。


開けれるのかな?と思っている『私』は

その男性の自分を

観察しているほうの『私』で

男性のほうの自分は

何も考えず開けています。


そして、この『私』は

表層意識のほうに近い私で

視界的には その

男性らしきほうの自分の目から見ていたり

『私』と『男性』の自分

両方の視界から 同時に見ていたりします。

明晰夢をよくみる方には伝わりやすいと思いますが

そうでない方には少し ややこしいかもです。。けども

細かいことは あまり気にせず ついてきてください(^^;


そして ドアを開けると

その部屋の中には 

なぜか 壁も床も天井も 

何も無く

とても明るいのに 

まったく眩しくない 白い『光』 

以外に まったく何もありませんでした。


光源となるようなものも無く。。


『私』のほうが咄嗟に

『?!!』

『入ったら落ちるのでは?』思うと同時に 

男性らしきほうの自分は

その部屋にスッと入って行き

ふつうに2〜3歩ほど


歩いて立ち止まりました。


『足を見てください』

『手を見てください』

のように促され、見ていくと

それは確かに

日頃の自分の手と比べ

デカくてゴツめの男性の手であり、

男性の裸足の足でした。


そのとき『私』のほうも

男性の中の視界から 自分の両手のひらを

穴があくほど まじまじと

見ていたのを覚えています。


それは

『本当に夢だろうか』と信じ難いほど

リアルすぎるからですが


『顔を触ってみてください』のように言われ 触ると

髭が、かなり立派に生えていました。

その手触りを

『髭ボーボーってこんな触り心地なのか。。』

と驚きながら しつこく触り。


服装を見てください。。。

どんな服装ですか? なども

促されたような気がしますが

この辺りで、その自分の全貌を

クッキリと 眺めている自分がいて

それは

なに人だか わからないような

なに人と言われても

『はー。そうですか。。』と

納得するしかないような

長髪の男性であり


そのあまりにも 

どこか いかにも風な姿に

『これは 自分の過去生の理想像なんだろうか。。笑』

と、やや笑いながら 

そこまでは出たり入ったりしていた私も

気付くと完全にその男性の自分の中にいて、

『ひとつの視界』になっていました。


床もないのに 

どうして落ちていかないんだろう。。

どうして光以外に何も無いんだろう。。

と思いながら

ここがどこなのか。という

何かヒントのようなものを

見つけられないかと

しばしキョロキョロし

振り向くと 

入ってきたはずのドアも無く

上下 前後 左右 見渡せど360°  

光しか無く


気づけば 

その男性の自分の身体も無く


空間と呼べるかどうかもわからないような

その光しか無い空間のようなものに 

自分の意識だけが在りました。


それはそこに『浮かんでいる』という感覚ではなく

その 光の中のどこかに

ひとつの纏まった感じの意識で存在しているのでもなく

果てしの無い感じなのに

そのどこにも 意思を持って位置することは できず

例えば、たとえ『どこまでも行ってみる』という 

“動き” のような何かをもし 出来たとしても 

どこまで行っても 光しかないので

自分が 移動というものを 出来ているのか いないのか

それすらまったく何も わからない

移動という概念の 存在し得ない世界であり。


なにかが『変化する』というような

現象のようなものが 見渡せど

まったく何もないので

時間が 経っているのか いないのか

知るすべもない

時間という概念も 知りようのない世界です。。


この先を読み進める前に

どうか 一度、目を閉じて


この『光しかない』中とも外とも空間とも

領域とも 呼びようのない無限の光として

永遠かのように『ひとつの意識だけで在る自分』


という感覚を 静かに想像し

そして もし自分がそのようで在るなら

心に何を『思う』可能性があるかを

しばらく想像してみてください。。


ちなみに『他』を一切 知らないので

『孤独』という観念も知りようがなかった頃の想像です。



私はこの   “ どこか 一点に居ようのない ”

どこにも 『滞在する』ということのできない

遍在と呼ぶことすら限定的で違うと感じるほどの


どうしようもなく果てし無いだけの光の意識の光景を


自分が ただ そう『在る』 ということ以外、まったく何も 

何も知らない』 という観念すら

まったく何も知りようのなかったような光景を

『知っていたのは 唯一それだけか。。』

というような

なんとも言えない 

途方もない思いで観察しながら


どこからも なにからも

生まれたことがなく ゆえに 

『消滅』という観念もなく


『始まった』 という記憶も

『場所』というものも

『状態』というものも無いので

“いつから”  “そこに”  “ そのように”  という

疑問の湧きようもなく


だから

“気づけば そう在った” というような

『気付けば』という観念もなく

ただひたすらに “光で在る” 以外に まったくなにもない


有限を知らないので

自分が無限とも知りようのない


光の意識として ただ在る自分。。。


で 在ると同時に

それを観察している表層意識に近いほうの私は

気付けばまた 我に返って つべこべ考えていました。


もし自分が ただ このように この 意識 だったら

いったい何を思うだろう。。

永遠や無限という概念も知らぬまま


自分以外の何ものか を知らないから

『孤独』を知るということもできず


暗闇を見たこともないから

『自分が “光” で在る』ということも知らず


『自分が在る』こと以外に何もないなら

『何かを思う』ための材料が何もないため

なんにも 思いようがないだろうか。。。と


思いを巡らせていたとき


その自分が持つ唯一の材料を使って

唯一 持つことが可能であった『疑問』のような


どうすることもできない『』のような


感情のようなものが湧いてきて


それを人間である私が

言葉に変換するならば

まさに


自分。。。





『自分とは なにか?』




つづく🌈②