蓮が見世にやってこなくなって小毬はかなり機嫌が悪かったが、緋鸚右衛門に「落ち着けば顔を出せる」という一言で不承不承大人しくなった。
鶯が鳴き始め、長い梅の盛りが過ぎ、水が僅かに温んだ頃、吉原仲の町に桜が植えられた。
今回は身請けが決まった宝月楼、雪花太夫からの頼みで吉原初の枝垂れ桜が植えられた。
ゆっくりと蕾が色づき、綻んでいく。
六分咲きの中を雪花は最後の道中をした。
濃い縹色一色の打ち掛けは桜をよく引き立たせた。
どこか八朔の白無垢を思わせる出で立ちに見物客からは溜め息が洩れた。
その客の中に蓮はいた。
今日の座敷は緋鸚右衛門が開いたものだ。
雪花の身請けをする虎乃丞に雪花が一度養子に入る宝屋主人、宝月楼主人緋鸚右衛門、茶屋の誠士郎、女衒の黒潮と無礼講もここに極めりという面々だ。
華やかな道中が終われば、新開屋の二階に集まった皆は緊張が解ける。
二階の座敷を開け放ち、宝月楼と新開屋の料理番が腕を奮った大皿料理が並べられる。
酒も料理も無礼講で禿や年若い振袖新造などは、料理を突くのに忙しい。
さすがに番頭新造や芸者衆は酒を注いで回ったりしていたが、いつもの座敷よりも気楽に宴を楽しんでいた。
雪花はその様を見ていた。
夜が明ければ雪花はここを出て行く。
苦界とはいうが、緋鸚右衛門の気まぐれとは云え大見世に買い取られた雪花には過ぎた待遇だった。
そして年季もまだ残る身で身請けされる。あまつさえ嫁にと望まれる。
戯作とてこんなに都合の良い話は無いだろう。
別れが辛いと思うのは、与えられた物が多すぎて理解出来ないからだろうと、雪花は思う。
雪花は小毬に呼び寄せられる。
酒宴も終盤。
雪花が居ても話は弾むだろうと判断して雪花は続き間に移る。
「お姉様、小毬に会いに来て下さいますわよね」
泣くのを我慢している小毬に雪花は頷いた。
「勿論よ。旦那さんが切手を出して下されば、いつでも小毬ちゃんに会いに来るわ」
果たして武家に嫁に行って気ままに振る舞う事が出来るのか、という疑問が残る。
しかし今はそれを気にすべき所ではない。
「蓮様もいらっしゃれば宜しいのに」
湿りを帯びた声音に雪花の顔が強ばった。
見ないようにしていたものを突きつけられた気がした。
「敦賀さまもご自身の事でお忙しのよ。落ち着いたら遊びにいらしてくれるわ。それまでの我慢よ」
そっと小毬の髪を撫でた。
やがて宴もお開きとなり、遊女達は三々五々、宝月楼へと帰って行った。
楼主達は場所を新開屋の奥座敷に変えて飲むのだろう。
緋鸚右衛門達に挨拶をして雪花は座敷を後にした。
小毬達とお喋りをしながら江戸町を歩く。
重い打ち掛けと笄は抜いてしまった。
梳り、手早く丸髷にしてしまうとさっきのまでの派手さは影も形も無い。
籬の中から奏江や千織を呼び止める声がかかるが、雪花には一言も無い。それを良い事に小毬と二人手をつないで早く早くと二人をせき立てて楼へと戻っていった。
そして最後の夜もいつものように過ぎていった。
あっさりと「お休み」と告げる三人に、雪花は蓮との別れを思い出していた。
部屋の中は小さな柳行李がぽつんと一つ置かれている。
着物は全部置いていくのが決まりだった。
残った女郎達が貰い受けるのだ。
一度も使われなかった三枚の布団はきっと上尾が使うだろう。
元々、身一つだ。更には雪花はあまり物を欲しがらなかった。
身請けとはあまりにあっけないものだと思う。
雪花は着物を脱ぎ、衣紋に掛けて寝間着に着替えると薄い布団に横になった。
雪花の朝は他の遊女と違って早い。
最後の朝も同じように起き上がった。
布団を畳み、身支度を終えると行李を手に襖を開け放し、廊下に出ると、床に座って頭を下げた。
最後に一瞥して雪花は下へと降りていった。
階下では緋鸚右衛門だけが起きていた。
「お世話になりました」
三つ指ついて頭を下げる雪花に、緋鸚右衛門は「幸せになりな」とだけ告げた。
そのまま連れだって宝月楼を出る。
大門まで緋鸚右衛門は雪花の嫁ぎ先の相手を独り言のように話して聞かせた。
「まあ、どうにも煮え切らない男だが、お前を嫁に貰ったら腹も据わるだろうからよ」
そこで雪花を振り返りニヤリと笑った。
「吉原で話題の雪花太夫が嫁だと知ったときの彼奴の顔が見物だぜ」
雪花は意味が分からず首をかしげるが、緋鸚右衛門はそれ以上は何も云わなかった。
大門は明けられている。
その向こうには高麗駕籠が一つ。
「雪花。よう頑張ったな」
「旦那さん」
「皆の顔を見たきゃいつでもいいな。切手を出すだけならいくらでも出してやるからよ」
気っ風のいい口調で云う緋鸚右衛門を雪花は笑って見上げた。
最後にもう一度だけ、振り返って桜を見て雪花は京子になった。
大門を出て行った京子は二度と振り返らなかった。