弔辞
9日に営まれた忌野清志郎さんの葬儀には、生前から親交の深かったミュージシャンや俳優らが多数参列した…。
葬儀では俳優の竹中直人さん、大竹しのぶさん、ロックミュージシャンの甲本ヒロトさんの3人が弔辞で在りし日の清志郎さんをしのび、別れを惜しんだ。
弔辞の全文は次の通り。
◆俳優・竹中直人さんの弔辞<全文>
清志郎さんへ。
清志郎さん、清志郎さん。
僕はきょう、清志郎さんに「いってらっしゃい。今まで本当にありがとうございました」。
ただ、それだけを言うつもりで来たのに、「弔辞をお願いします」って、ものすごいプレッシャーです。
めちゃくちゃプレッシャーです。
だから、清志郎さんにもらった指輪をしてきました。
きのうの朝はものすごい雨と雷でした。
急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら、車を走らせました。
ボス、キング、ゴッド……、いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとっては、やっぱり清志郎さんです。
何だかまだぼーっとしています。
体も心もまだ震えています。
お通夜の日、清志郎さんの寝顔を見たけど、別人じゃないかって思ってしまいました。
でも、とてもきれいな顔でした。
とってもきれいな手でした。
僕ね、清志郎さん、僕たちはまだ、信じられない思いでいっぱいです。
忌野清志郎が死んじまった。
何度も言葉でつぶやいても、心の中で思っても、受け入れることができません。
絶対に受け入れることなんかできるわけがない。
でも、本当は、清志郎さん、大好きな清志郎さん、みんなみんな、清志郎さんのことが大好きです。
清志郎さんのこと嫌いな人なんて、誰一人だっていない。
清志郎さんががんを克服したとき、(三浦)友和さんと3人でお祝いをしましたね。
そのとき清志郎さんは「竹中、オレ、ガンじゃなかったかもしれないんだが、いまさらそんなこと言えないんだよな」って言ってましたね。
僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。
「なんて独特な声の持ち主なんだ」。
それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。
それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。
そして僕は大学生の時に、古井戸の加奈崎さんの紹介で、本物の清志郎さんに出会え、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになったんです。
でも、撮影途中カメラが倒れて壊れてしまい、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。
それからライブで清志郎さんに会った時、清志郎さんが「竹中、あの8ミリ映画はどうした」と言ってくれたことを思い出します。
その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつかきっと清志郎さんと一緒に映画を作るんだと夢をふくらませてきました。
そしてその夢はかない、清志郎さんは僕が監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。
清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。
僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。
僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。
僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。
清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。
清志郎さんが5夜連続のラジオをやる時も「竹中、一人では間が持たないから来てくれないか」と呼んでくれました。
僕が作った映画が映画館でやっている時も「竹中、お客さん入っているらしいじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さんが入っているのを見ながら「竹中、やったな、やったな」と何度も何度も言ってくれました。
僕はみんなに自慢したいです。
オレは忌野清志郎と友達なんだぜ!って。
世界中の人に自慢したいです。
ずっとずっと自慢していていいんですよね、清志郎さん。
僕は、清志郎さんに何もしていない。自分のことばかりで。
清志郎さんの髪が抗がん剤で抜け落ちて、また生えて来た時、清志郎さんは僕に言ってくれましたよね。
「竹中、竹中には絶対勧められないんだけどさ。抗がん剤ってさ、髪が全部抜けちゃうんだけど、その後に生えてくる髪が剛毛なんだぜ」って。
でも僕は清志郎さんに「頑張ってください」なんて、ありきたりな言葉しか言えなかった。
清志郎さん。
清志郎さんが残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっと僕の中に生きています。
忌野清志郎は死んでない。
ずっとずっと僕たちの中に生きています。
ものすごくさびしいけど、僕たちはそう確信しています。
清志郎さん。
僕の母は、僕が高校3年生の時に亡くなりました。
母の死はそのころの僕にとっては深い悲しみでした。
3年前、母の33回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんが、こんな言葉を僕に伝えてくれました。
「直人君のお母さんが33年間、ずっと直人君のそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たってお母さんがやっと直人君から離れて月に帰っていったんだ」。
だから清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。
そして、月に帰っていくんですよね。
だから清志郎さん、これからも33年間、僕たちのことを見守っていてくださいね。
見て欲しくない時は、目をつぶって見て見ぬふりをしていてください。
でも、ここだって時は、僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。
清志郎さん、ボス、キング、ゴッド。
ずっとずっと僕たちは、清志郎さんが大好きです。
ずっとずっとずっと! 清志郎さーん、またね!(大きく手を振って、一礼)
◆俳優・大竹しのぶさんの弔辞<全文>
清志郎さん、今日、晴れたよ。
たくさんの人たちが朝早くから並んで待っています。
あの武道館の日みたいに、ゆうべも空を見ながら清志郎さんのことを思いました。
今ここでこんな風にあなたとお話をする日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。
今頃はきっとつくばの町を自転車で走っているか、完全復活完全版の夏のフェスのリハーサルがそろそろ始まる時期なので忙しくなっているはずでした。
そう約束していましたよね。
去年の2月、たくさんの、ほんとうにたくさんの人たちがあなたの復活を喜び感動し、夢はかなうものだと教えてもらいました。
そして7月、あなたの病気の再発がわかった夜、私はゆうべのように空を見ながら、どうぞ一日も早く病気が治りますように、がんなんてどっかにいってしまいますようにとお祈りしました。
そのとき、ああ今こうしてたくさんのファンの人たちが私と同じように清志郎さんにすごいパワーを送っているんだなということを感じました。
「清志郎、がんばれ」
「清志郎、絶対戻ってこい」
って、あなたが言った
「夢を忘れず」
にという言葉と一緒に。
だから絶対治ると信じることができました。
そのことをあなたに言ったら、あなたからの返信は「ラブ ラブ ラブ」でしたね。
「みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね」という力強いものでした。
そしてこの5月、あなたにもう二度と会えないとわかったとき、たくさんの人が大きなとてつもなく大きな悲しみに包まれました。
でもそれと同時に、あなたの歌に、言葉に、音楽に、再び命が注ぎ込まれて私たちの心にずっと生き続けることを確認できた夜になりました。
あなたを大好きな音楽の仲間たちの手によって、あなたがずっと言っていた愛と平和な世界が一日も早くくるように、これからもリードしていってください。
療養中も「何もすることがないから明るく引きこもってるんだ。でも結構楽しいです」というメールをもらいました。
大好きなご家族と優しい時間を過ごすことができてよかったね。
これからもいつも竜平君、百(もも)ちゃんを見守ってください。
昨日、私の友人の勘三郎さんとあなたの話をしました。
彼は「僕はあの人に会わなくてよかったと思う」と言っていました。
「会っていたら、悲しくてやりきれないから。そのぐらいきっとすてきな人だと思うから」と言っていました。
本当にその通りです。
私なんかよりももっともっと身近にいた人、私なんかよりもっともっとあなたを愛していた人たちの悲しみを思うと言葉もありませんが、でもやっぱり私はあなたに会えてよかったです。
あなたのファンになって本当によかったと思っています。
ときどき空の上から「愛しあってるかい」って問いかけて下さい。
「OK、ベイビー、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く、優しく、明るく、楽しく生きていきます。
清志郎さん、本当にお疲れ様でした。
そして本当に本当にありがとう。
◆ミュージシャン・甲本ヒロトさんの弔辞<全文>
清志郎ーっ。
あなたとの思い出にろくなものはございません。
突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり、何だか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり、レコーディングの作業中にとんちんかんなアドバイスばかり連発するもんで、レコーディングがとどこおり、そのたびに我々は聞こえないふりをするのが必死でした。
でも、今思えば、全部冗談だったんだよな。
きょうも、「清志郎、どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」と言うもんだから、「そーか、じゃあ、オレも革ジャン着ていくか」と思ってきたら、何だか浮いてるし。
清志郎のまねをすれば浮くのは当然で、でも、あなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。
ステージの上の人だったんだな、うん。
一番最近会ったのは、去年の11月、それはザ・フーの来日公演で武道館の、その時はあなたは客席の人でした。
ステージの上の清志郎じゃなくて、客席の人でした。
たくさんの人が清志郎にあこがれるように、あなたはロックンロールにあこがれていました。
僕もそうです。
そんな一観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは業界のコネをフルに生かした戦利品とでもいいましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。
ちっともあなたは観客席の一人でなかった。
僕があまりにうらやましそうにしているので、二枚あったそのうちの一つを僕にくれました。
(ポケットを探り)
こっちじゃねえや、これだ。
ピート・タウンゼントが使っていたピックです。
これはもう、返さなくていいね。
収めます。
ありがとう。
一生忘れないよ。
短いかもしれないけど、一生忘れない。
そんで、ありがとうを言いに来たんです。
数々の冗談、ありがとう。
いまいち笑えなかったけど。
きょうもそうだよ。
ひどいよ、この冗談は。
そんでね、ありがとうを言いにきました。
清志郎ありがとう。
それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、それから家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん、どうもありがとう。
どうもありがとう。
で、あと一つ残るのは、きょうもたくさん外で待っているあなたのファンです。
彼らにありがとうは、僕は言いません。
僕もその一人だからです。
それはあなたが言ってください。
どうもありがとう。
ありがとう。
葬儀では俳優の竹中直人さん、大竹しのぶさん、ロックミュージシャンの甲本ヒロトさんの3人が弔辞で在りし日の清志郎さんをしのび、別れを惜しんだ。
弔辞の全文は次の通り。
◆俳優・竹中直人さんの弔辞<全文>
清志郎さんへ。
清志郎さん、清志郎さん。
僕はきょう、清志郎さんに「いってらっしゃい。今まで本当にありがとうございました」。
ただ、それだけを言うつもりで来たのに、「弔辞をお願いします」って、ものすごいプレッシャーです。
めちゃくちゃプレッシャーです。
だから、清志郎さんにもらった指輪をしてきました。
きのうの朝はものすごい雨と雷でした。
急に外に出たくなり、大音量で清志郎さんの歌を流しながら、車を走らせました。
ボス、キング、ゴッド……、いろんな呼び方が清志郎さんにはあったけど、僕にとっては、やっぱり清志郎さんです。
何だかまだぼーっとしています。
体も心もまだ震えています。
お通夜の日、清志郎さんの寝顔を見たけど、別人じゃないかって思ってしまいました。
でも、とてもきれいな顔でした。
とってもきれいな手でした。
僕ね、清志郎さん、僕たちはまだ、信じられない思いでいっぱいです。
忌野清志郎が死んじまった。
何度も言葉でつぶやいても、心の中で思っても、受け入れることができません。
絶対に受け入れることなんかできるわけがない。
でも、本当は、清志郎さん、大好きな清志郎さん、みんなみんな、清志郎さんのことが大好きです。
清志郎さんのこと嫌いな人なんて、誰一人だっていない。
清志郎さんががんを克服したとき、(三浦)友和さんと3人でお祝いをしましたね。
そのとき清志郎さんは「竹中、オレ、ガンじゃなかったかもしれないんだが、いまさらそんなこと言えないんだよな」って言ってましたね。
僕が中学3年生の時、深夜のラジオから独特な歌が流れてきた。
「なんて独特な声の持ち主なんだ」。
それが僕にとって清志郎さんとの最初の出会いでした。
それからずっと清志郎さんの音楽は、RCサクセションの音楽は、僕のそばにいました。
そして僕は大学生の時に、古井戸の加奈崎さんの紹介で、本物の清志郎さんに出会え、僕たちの作っていた8ミリ映画に出演してくれることになったんです。
でも、撮影途中カメラが倒れて壊れてしまい、清志郎さんの出演シーンはなくなってしまいました。
それからライブで清志郎さんに会った時、清志郎さんが「竹中、あの8ミリ映画はどうした」と言ってくれたことを思い出します。
その言葉は僕の心の中にずっと残っていて、いつかきっと清志郎さんと一緒に映画を作るんだと夢をふくらませてきました。
そしてその夢はかない、清志郎さんは僕が監督した映画の音楽監督をやってくれて、日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を取ったんですよね。
清志郎さんは僕が映画を撮るたび、「竹中、映画を撮っているそうじゃないか。出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。
僕がテレビをやっている時も「竹中、出番はないか」と必ず駆けつけてくれました。
僕が50歳になった時も、「竹中、おめでとう」と駆けつけてくれました。
僕がどんなに落ち込んでいても、「竹中」っていつも声をかけてくれました。
清志郎さんの30周年の時も、35周年の時も、「竹中、出番があるぞ」と声をかけてくれました。
清志郎さんが5夜連続のラジオをやる時も「竹中、一人では間が持たないから来てくれないか」と呼んでくれました。
僕が作った映画が映画館でやっている時も「竹中、お客さん入っているらしいじゃないか」って一緒に映画館に行ってくれて、お客さんが入っているのを見ながら「竹中、やったな、やったな」と何度も何度も言ってくれました。
僕はみんなに自慢したいです。
オレは忌野清志郎と友達なんだぜ!って。
世界中の人に自慢したいです。
ずっとずっと自慢していていいんですよね、清志郎さん。
僕は、清志郎さんに何もしていない。自分のことばかりで。
清志郎さんの髪が抗がん剤で抜け落ちて、また生えて来た時、清志郎さんは僕に言ってくれましたよね。
「竹中、竹中には絶対勧められないんだけどさ。抗がん剤ってさ、髪が全部抜けちゃうんだけど、その後に生えてくる髪が剛毛なんだぜ」って。
でも僕は清志郎さんに「頑張ってください」なんて、ありきたりな言葉しか言えなかった。
清志郎さん。
清志郎さんが残してくれた言葉、声、歌は、ずっとずっと僕の中に生きています。
忌野清志郎は死んでない。
ずっとずっと僕たちの中に生きています。
ものすごくさびしいけど、僕たちはそう確信しています。
清志郎さん。
僕の母は、僕が高校3年生の時に亡くなりました。
母の死はそのころの僕にとっては深い悲しみでした。
3年前、母の33回忌の時、母のお墓のあるお寺の住職さんが、こんな言葉を僕に伝えてくれました。
「直人君のお母さんが33年間、ずっと直人君のそばにいて、直人君を見守っていたんだよ。33年たってお母さんがやっと直人君から離れて月に帰っていったんだ」。
だから清志郎さんはこれから33年間、ずっと僕たちのそばにいてくれるんだと思いました。
そして、月に帰っていくんですよね。
だから清志郎さん、これからも33年間、僕たちのことを見守っていてくださいね。
見て欲しくない時は、目をつぶって見て見ぬふりをしていてください。
でも、ここだって時は、僕たちに岩をも砕くエネルギーと勇気を与えてください。
清志郎さん、ボス、キング、ゴッド。
ずっとずっと僕たちは、清志郎さんが大好きです。
ずっとずっとずっと! 清志郎さーん、またね!(大きく手を振って、一礼)
◆俳優・大竹しのぶさんの弔辞<全文>
清志郎さん、今日、晴れたよ。
たくさんの人たちが朝早くから並んで待っています。
あの武道館の日みたいに、ゆうべも空を見ながら清志郎さんのことを思いました。
今ここでこんな風にあなたとお話をする日が来るなんて、夢にも思っていませんでした。
今頃はきっとつくばの町を自転車で走っているか、完全復活完全版の夏のフェスのリハーサルがそろそろ始まる時期なので忙しくなっているはずでした。
そう約束していましたよね。
去年の2月、たくさんの、ほんとうにたくさんの人たちがあなたの復活を喜び感動し、夢はかなうものだと教えてもらいました。
そして7月、あなたの病気の再発がわかった夜、私はゆうべのように空を見ながら、どうぞ一日も早く病気が治りますように、がんなんてどっかにいってしまいますようにとお祈りしました。
そのとき、ああ今こうしてたくさんのファンの人たちが私と同じように清志郎さんにすごいパワーを送っているんだなということを感じました。
「清志郎、がんばれ」
「清志郎、絶対戻ってこい」
って、あなたが言った
「夢を忘れず」
にという言葉と一緒に。
だから絶対治ると信じることができました。
そのことをあなたに言ったら、あなたからの返信は「ラブ ラブ ラブ」でしたね。
「みんなの愛にこたえてちゃんと元気になるから、全然大丈夫だよ。心配しないで待っててね」という力強いものでした。
そしてこの5月、あなたにもう二度と会えないとわかったとき、たくさんの人が大きなとてつもなく大きな悲しみに包まれました。
でもそれと同時に、あなたの歌に、言葉に、音楽に、再び命が注ぎ込まれて私たちの心にずっと生き続けることを確認できた夜になりました。
あなたを大好きな音楽の仲間たちの手によって、あなたがずっと言っていた愛と平和な世界が一日も早くくるように、これからもリードしていってください。
療養中も「何もすることがないから明るく引きこもってるんだ。でも結構楽しいです」というメールをもらいました。
大好きなご家族と優しい時間を過ごすことができてよかったね。
これからもいつも竜平君、百(もも)ちゃんを見守ってください。
昨日、私の友人の勘三郎さんとあなたの話をしました。
彼は「僕はあの人に会わなくてよかったと思う」と言っていました。
「会っていたら、悲しくてやりきれないから。そのぐらいきっとすてきな人だと思うから」と言っていました。
本当にその通りです。
私なんかよりももっともっと身近にいた人、私なんかよりもっともっとあなたを愛していた人たちの悲しみを思うと言葉もありませんが、でもやっぱり私はあなたに会えてよかったです。
あなたのファンになって本当によかったと思っています。
ときどき空の上から「愛しあってるかい」って問いかけて下さい。
「OK、ベイビー、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く、優しく、明るく、楽しく生きていきます。
清志郎さん、本当にお疲れ様でした。
そして本当に本当にありがとう。
◆ミュージシャン・甲本ヒロトさんの弔辞<全文>
清志郎ーっ。
あなたとの思い出にろくなものはございません。
突然呼び出して、知らない歌を歌わせたり、何だか吹きにくいキーのハーモニカを吹かせてみたり、レコーディングの作業中にとんちんかんなアドバイスばかり連発するもんで、レコーディングがとどこおり、そのたびに我々は聞こえないふりをするのが必死でした。
でも、今思えば、全部冗談だったんだよな。
きょうも、「清志郎、どんな格好してた?」って知り合いに聞いたら、「ステージ衣装のまま寝転がってたよ」と言うもんだから、「そーか、じゃあ、オレも革ジャン着ていくか」と思ってきたら、何だか浮いてるし。
清志郎のまねをすれば浮くのは当然で、でも、あなたは、ステージの上はすごく似合ってたよ。
ステージの上の人だったんだな、うん。
一番最近会ったのは、去年の11月、それはザ・フーの来日公演で武道館の、その時はあなたは客席の人でした。
ステージの上の清志郎じゃなくて、客席の人でした。
たくさんの人が清志郎にあこがれるように、あなたはロックンロールにあこがれていました。
僕もそうです。
そんな一観客同士の共感を感じ、とても身近に感じた直後、あなたはポケットから何かを出されて、それは業界のコネをフルに生かした戦利品とでもいいましょうか、ピート・タウンゼントの使用するギターのピックでした。
ちっともあなたは観客席の一人でなかった。
僕があまりにうらやましそうにしているので、二枚あったそのうちの一つを僕にくれました。
(ポケットを探り)
こっちじゃねえや、これだ。
ピート・タウンゼントが使っていたピックです。
これはもう、返さなくていいね。
収めます。
ありがとう。
一生忘れないよ。
短いかもしれないけど、一生忘れない。
そんで、ありがとうを言いに来たんです。
数々の冗談、ありがとう。
いまいち笑えなかったけど。
きょうもそうだよ。
ひどいよ、この冗談は。
そんでね、ありがとうを言いにきました。
清志郎ありがとう。
それから後ろ向きになっちゃってるけど、清志郎を支えてくれたスタッフの皆さん、それから家族の皆さん、親族の皆さん、友人の皆さん、最高のロックンロールを支えてくれた皆さん、どうもありがとう。
どうもありがとう。
で、あと一つ残るのは、きょうもたくさん外で待っているあなたのファンです。
彼らにありがとうは、僕は言いません。
僕もその一人だからです。
それはあなたが言ってください。
どうもありがとう。
ありがとう。