『ぼくの家はここにあった 爆心地〜ヒロシマの記録〜』
原爆ドームが『広島県産業奨励館』と呼ばれていたころ、街角には謡曲が流れ、子どもたちの歓声が響いていた。
戦前、そこで暮らした映像作家が約10年をかけて原爆投下前の町並みをコンピューター・グラフィックス(CG)で復元し、『DVDブック』として今夏出版した。
江戸時代に能役者や囃子方(はやしかた)ら藩主のお側衆(そばしゅう)が住んだ『猿楽町』。
能衣装や和楽器などの細工師が暮らした『細工町』。
今の広島市中区大手町1丁目のあたり。
爆心直下となった産業奨励館の周囲には、63年前の8月6日まで、約『260世帯』が暮らす城下町の風情漂う町があった。
広島市の『ナック映像センター』社長、田辺雅章さん(70)はそんな町で生まれ育った。
家は産業奨励館の隣だった。
原爆投下当時は7歳。
山口県に疎開していて直撃は免れたが、両親と弟を亡くした。
自身も投下2日後に広島に戻り、被爆した。
長年被爆体験は封印してきたが、還暦を目前にしたころ、転機が訪れた。
ドーム前で女子高校生に写真撮影を頼まれた。ファインダーをのぞくと笑顔の生徒が「イエーイ!」。
フレームに母と弟が眠る生家跡が見えた。
『原爆の記憶が薄れつつある』
と町並みの再現を思い立った。
97年に元住民とともに連絡組織をつくり、白地図を1戸ずつ埋めていった。
生存者は当時の写真を持ち寄り、翌年、第1弾となる産業奨励館を中心とした復元映像が完成した。
田辺さんは米国立公文書館に何度も通い、被爆前の航空写真からも建物の位置を割り出した。
02年には『猿楽町』を、05年には『細工町』を再現するとともに、投下直前から爆発の瞬間までを描いた。
『CG』の町では謡曲や虫の音、台所でリズム良く響く包丁の音が聞こえる。
商店の中からは「いらっしゃい」の声もする。だが、人の姿はどこにもない。
『直後に数千度の熱で焼かれることを思うと耐えられなかった』
3本の映像はこれまで国連本部で上映されたほか、『500』近い学校に教材として貸し出されてきた。
そして今年、回顧録を書き下ろし、映像を60分に編集して、DVDブック
『ぼくの家はここにあった 爆心地~ヒロシマの記録~』
(朝日新聞出版、3800円・税別)を出版した。
『これは孫の世代への遺言。あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日が繰り返される』
と語る。
戦前、そこで暮らした映像作家が約10年をかけて原爆投下前の町並みをコンピューター・グラフィックス(CG)で復元し、『DVDブック』として今夏出版した。
江戸時代に能役者や囃子方(はやしかた)ら藩主のお側衆(そばしゅう)が住んだ『猿楽町』。
能衣装や和楽器などの細工師が暮らした『細工町』。
今の広島市中区大手町1丁目のあたり。
爆心直下となった産業奨励館の周囲には、63年前の8月6日まで、約『260世帯』が暮らす城下町の風情漂う町があった。
広島市の『ナック映像センター』社長、田辺雅章さん(70)はそんな町で生まれ育った。
家は産業奨励館の隣だった。
原爆投下当時は7歳。
山口県に疎開していて直撃は免れたが、両親と弟を亡くした。
自身も投下2日後に広島に戻り、被爆した。
長年被爆体験は封印してきたが、還暦を目前にしたころ、転機が訪れた。
ドーム前で女子高校生に写真撮影を頼まれた。ファインダーをのぞくと笑顔の生徒が「イエーイ!」。
フレームに母と弟が眠る生家跡が見えた。
『原爆の記憶が薄れつつある』
と町並みの再現を思い立った。
97年に元住民とともに連絡組織をつくり、白地図を1戸ずつ埋めていった。
生存者は当時の写真を持ち寄り、翌年、第1弾となる産業奨励館を中心とした復元映像が完成した。
田辺さんは米国立公文書館に何度も通い、被爆前の航空写真からも建物の位置を割り出した。
02年には『猿楽町』を、05年には『細工町』を再現するとともに、投下直前から爆発の瞬間までを描いた。
『CG』の町では謡曲や虫の音、台所でリズム良く響く包丁の音が聞こえる。
商店の中からは「いらっしゃい」の声もする。だが、人の姿はどこにもない。
『直後に数千度の熱で焼かれることを思うと耐えられなかった』
3本の映像はこれまで国連本部で上映されたほか、『500』近い学校に教材として貸し出されてきた。
そして今年、回顧録を書き下ろし、映像を60分に編集して、DVDブック
『ぼくの家はここにあった 爆心地~ヒロシマの記録~』
(朝日新聞出版、3800円・税別)を出版した。
『これは孫の世代への遺言。あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日が繰り返される』
と語る。
