僕は新約聖書のキリストの姿が正直大嫌いなのですが、日蓮聖人の姿もどうやら似たようなもののようです。

気持ちや考えは間違いではないのですが、やり方が圧倒的にまずすぎる。完全に喧嘩を売っていますから。しかも絶対に譲れないものに

対して。血みどろの争いになりかねない。安国とは遠くかけ離れかねない。

正法と邪法の区別をどうするかなんだとは思いますが。

邪法とは一生懸命さを差別する心を正当化するものだと思います。

申し訳ありませんが、僕を心底馬鹿にするのを楽しむ場合は、邪法を信じていると言わざるを得ない。

自分は本当に大丈夫だろうかという疑いを忘れない事が大事です。そう思える内は正法に従っていると言えるはずです。

僕もコメントがついたというメッセージを受け取るたびに冷や冷やしています。いつ、冷や水を浴びせられるかと。

その度、いい意味で期待を裏切られるのでとてもありがたく感じています。

自分以外も、自分もほどほどに疑うようにしなくては。共に信じてもいい範囲をきっちり意識して考えるようにしなくては。

百ゼロも、ゼロ百もあり得ません。それは明らかに異常です。百ゼロなら抑うつで、ゼロ百なら躁鬱。

躁鬱は抑うつの反動のはずです。

自分の信じてもよい範囲と共に、自分以外の信じてもよい範囲も大事にしなくては。

ちなみに、一生懸命さを決して差別したくないという強い熱意がこもらない綺麗で美しい言葉や行動を、僕は聖なる虚飾と呼び忌み嫌っています。

選ばれたという真実があっても、それを理由に強引に事を推し進めるのでは、全ては聖なる虚飾とならざるを得ない。

僕はリア王に感動した事があります。王権という虚飾を脱ぎ捨てた王様の姿に感動したんです。

「虚飾を徹底して排除しようとする姿勢態度は何と素晴らしいのだろうとそう感じたんです。」