法に背く贖罪と更生については、いわずもがなだと思います。
個人的には、本来、道徳的なそれらを手助けするのが宗教の役割のように思えてなりません。
宗教の役割は、個人に道徳的な罪に基づく贖罪と更生の余地を見出し、贖罪と更生へと導く、自らの力で、贖罪と更生を行えるよう手助けする事ではないかと。
介護や相談業務と宗教は対立するものとして捉えられているようです、その理由は、行動の良し悪しを判断し、悪しきを徹底して批判する審判的な態度こそが、宗教の本質とみなされているからなのですが。
必ずしも、その態度が常に正しいとは限らないのではないかとそう思えてなりません。
このままでは地獄に落ちます、わが団体に所属しなければ、幸せになれません。このような触れ込みは、宗教の本質とは思えないのです。
宗教と言えど、徹底的に信じ、これまでの人生への共感と受容を基本とする、これまでの人生を審判しない。
公に認められた贖罪と更生を手助けしてくれる場所というのは社会的な要請も十分あるものと思います。無論、強制収容施設とは趣を異にするものです。
審判や断罪は例外的に行われるべきものです、それらを徹底して行うのは宗教の役割だと思います。
宗教が日々を客観的に見ても真面目に頑張っている人に牙を剥いたり、胡散臭く思われるというのは非常に我慢がならない事です、怒りに変わる時もありますが、基本的にはただひたすらに悲しいものです。
優しさも温かみも感じられない宗教なんて宗教ではない、僕にはそう思えて仕方ありません。
この世にある存在全てを含めて考えるものだとそうも思いますし。
僕には宗教家になりたいという願望があるのだと思います、しかし、同時に自らはそれに相応しくないとそうも思います。宗教に片足をつっこんでいるのは事実だと思うので、その事は大変申し訳なく思いますが。
壮大な物語は、信じたいものを信じ続けるためのものにすぎず、信じ続けられる限りは、僕は特別じゃなくても構わない。ただの存在でいられる時が一番好きなので。