「死ぬ前に1度でいいから、秋の十和田湖に行きたいの。」
少女みたいなことを、母は事あるごとに言い続けていた。
それは、もう何十回も聞いたセリフで、だから私はいつも面倒くさそうに相槌を打っていた。
「そんなに行きたければ、行けばいいじゃん。」

昨年、母が軽い脳梗塞になり、少し言語障害になった。
入院するほどではなかったものの、母が命に関わる病気になったことに少なからずショックを覚えた。
人はいつかは死ぬものだと分かっていても、自分の家族は例外で、どこか他の誰かの親のことのような気がしていた。
でも、それは錯覚でしかない。
それからだ。親の話にもう少し耳を傾けよう―。
そう思うようになった。

父と母と私と3人だけで旅行に出かけるのは初めてだ。
そのことに旅行に出てから気づいた。
父も母も、子供のようにはしゃぎ、美しい紅葉を見て感嘆の声を上げていた。
ちょっと、おおげさじゃない? 傍で見ていて恥ずかしいほど。

でも、よく考えてみると、両親は私と弟を育てるのが忙しく、金銭的にも余裕がなかったので、旅行になんて出かけたことは、あまりなかった。
私は数え切れないほどの旅に出ていて、美しい景色にもいささか慣れっこになっている。でも父と母にとっては、美しい紅葉はもちろん、ちょっとした町並みや建物でも新鮮で、心洗われるものなのだろう。

そんなに楽しいのなら、夫婦2人で行けばいいのにと思う。
そう言うと、やれ申し込みが億劫だ、やれ書類が大変だと言い訳をする。
でも、本当の理由はちょっと別のところにあるようだ。

旅行中、他のツアー客から声をかけられた。
「娘さんとご旅行ですか?」
「ええ、そうなんですよ。」
「いいですねえ。うちは男ばかりだから」
「まあ、娘だとこれでも少しは話し相手になってくれますからね。」
そう答える母はとても得意そうだった。

これも、親孝行なのかもしれない。