愛着失敗。
愛着とは幼少期にはとても大切なこと。
自分の周り、
つまり親、きょうだい、祖父母、友達、自分を囲む人から肯定され、認めてもらうことで育まれる自己肯定感。
転んで足が擦りむけて痛いと泣くのに、
「大丈夫、そんなの痛くない」と言われるより、
「痛かったね」と事実を肯定してもらう方がいいに決まっている。
わたしは、
親にも友達にも肯定してもらえることがなかった。
つらい時、
抱きしめてもらうことも背中をさすってもらえることもなった。
愛着失敗。
だから、
大人になっても子どもが好きになれなかったし、
結婚しても子どもを愛せる自信なんてなかった。
誰かを好きになって、
たくさん恋愛もしたけど、
「愛」がわからなかった。
自分を大切にすることがわからないのだから、
人のことはもっと大切にする術など知る由もないなかった。
それが、
そんなわたしを変えたものがあった。
保護猫と暮らす中で、
たくさんの苦しみ、喜び、悲しみと対面してきたけど、
たった1匹の黒猫がわたしを変えました。
DVのシェルターで暮らしている時のこと、
ママチャリの後ろに3歳の息子を乗せてシェルターまで帰る道のりで、
近くのカラオケ店の自動ドアの内側に息子が見つけた小さな黒猫。
「ママ!ねこ!」
「えっ!?どこ?」
「あの向こう!」
息子が指を指したのはカラオケ店の中。
自転車を止めて店内のドアをくぐると小さな黒猫が丸まってました。
見た目どうやら猫風邪をひいている様子で、
店員さんに事情を話、断りを入れて家に連れ帰りました。
それが、
黒猫の「凛太郎」との出会い。
数ヶ月前、
帯広の駅前交番の横で保護したキジトラの拓と共に暮らし始め、
この凛太郎がとても愛情深い猫だったのです。
シェルターを出た後、
うつ病が重篤になってなにもできなくなったわたしの傍に常に凛太郎は張りついて、
泣いて喚こうが、
リストカットをして号泣しようが、
絶対にわたしから離れなかった。
これは、
きっと神様からの贈り物なのではないかと時々思って、
誰も教えてくれなかった愛をこの子が持ってきてくれたのではないかと感じました。
凛太郎がとても愛しくて、
とても大切だった。
なのに、
神様は時々それを取り上げにやってきて、
悲しみを置いていく。
大切だった凛太郎は、
たくさんの愛を教えてくれた凛太郎は、
脳腫瘍になり、
息絶えるその瞬間まで家族が揃うのを待って虹の橋を渡りました。
最期まで、
「みんな家族」と言っていたんだとそう思います。
凛太郎は今も自宅供養でこの家に暮らしています。
わたしは毎日話しかけ、
時々愚痴を言い、
時々頼み事をして、
時々骨壷を愛おしく抱きしめています。
凛太郎。
愛をありがとう。