旧くから友人兄弟ブレッドアンドバターの歌です
兄のサッチん、弟のニ弓の兄弟
の歌です
バックの写真は父が亡くなった頃の東京の中野区界隈の写真を
集めてスライドショーにしたものです
当時の中野駅北口、後にブロードウェイが
できた場所。
当たり前の事だが 父の45歳、僕は10歳という時に
他界した父。
いくつから記憶が有るか分かりませんが、父との
思い出は沢山あるのです。
4つ上の兄、2歳上の姉、そして母の4人の家族だった
幼稚園から小学校は同じ学校へ通った。
人の死が僕には理解出来なかったが、兄の気持ちに立てばそれは大変なショックだったろう今は想像出来る。
東京の中野区野方の薬屋の末っ子として生まれた。
兄は成績優秀な小学生、渋谷区に出来たある医大の付属中学
へ推薦で入学し通い高校生活がもうすぐというのも中での
父の他界だった。
まるで見せしめのようにも思えるほど父は兄に厳しく
夕飯を囲む席でも兄に向かって「長男であるお前は家の大黒柱だ」とか「戦争があった時に戦争に行くことになる、戦争で死なないために医者になれ」という話をしていたこと
よく覚えている
僕は兄が4歳のときに小学校一年ですから前述した話は僕が
幼稚園の頃にされていたものだろうと思います。
警察学校も遊び場だった
兄に連れられ、近所の子どもたち連れて一緒に警察学校に遊びに行き、誰が始めたかは覚えていないが、敷地内の射撃練習場へ行き、射撃後の空の薬莢を集めて帰って宝物の様に机の引き出しに仕舞っていた。
中野区野方とは当時の国鉄中野駅から北へ向かい警察学校を左に見ながら、早稲田通りを西へそして野方通りをまた北へ
右に野方警察署がり丸十というパン屋、そして左手に
矢島という乾物屋があった。
そばには野方小学校その裏にはーーー中野刑務所
中野区新井3-37-3
昭和58年まで、中野には刑務所がありました。
思想犯や政治犯などの知識人が、たくさん収容されていました。
中野の宅地化が進むなど、時代の変化によって、刑務所は廃止されました。その跡地は分割され、現在、
平和の森公園
東京都下水道局中野処理場
法務省矯正研修所東京支所
の三つの施設として利用されています。
往年の刑務所は、その門だけが、いまも法務省矯正研修所の敷地のなかに記念として残されています。
中野刑務所の略歴
豊島監獄(明治43年~大正11年)
豊多摩刑務所(大正11年~昭和21年)
連合軍(進駐軍)の拘禁所(スタッケード)(昭和21年~昭和31年)
中野刑務所(昭和32年~昭和58年)
中野刑務所(およびその前身の監獄)に収監されていた有名人(敬称略)
大杉栄、荒畑寒村、亀井勝一郎、小林多喜二、中野重治、埴谷雄高、河上肇、三木清(獄死)、藤本敏夫(加藤登紀子氏と獄中結婚)ほか
中野刑務所は凄い連中が投獄されていたのですね。
驚きました
中野刑務所は薬屋のお得意さんで変な話だが
親切にしてくれた。
父が注文を受けると一緒に届けていたので顔見知りだった。
刑務所の裏は広大な野原で近所の子供たちと連立ってこの野原
を遊び場にしていた。野原にはいくつか水溜まりがあり春は
お玉じゃくし、夏は蛙や蛍などを楽しめる子供たちの遊び場だった。
その他
興銀の大きな今で言うマンションを囲み、山の手らしい家が
立ち並ぶような場所であった
当時の我が家は
薬屋と自宅が一緒になった家で庭には柴犬
そして父が作ってくれた池に鮒や金魚が泳ぎ、生け垣はアオキ
が植えられ、夏にはヒマワリやグラジオラスが咲き、縁側で過ごす事が多かった。
一階の奥の部屋が子供部屋、2階には3つの部屋があり大学生が
下宿をしていた。
明治大学、早稲大学など六大学の学生のみ母が学生を選んだでいた。
学生たちと食事をする機会もあったがもっぱら学生たちは兄や姉を相手に話をしたり、休みには兄姉を連れて映画に出掛ける事もあったが僕はいつも留守番であった。
学生たちは休みになると帰省し、お土産を持って帰ってきた。
いつの間にかお土産を楽しみにしていたおもいでもある。
家から歩いて8のつく日には新井薬師で縁日が開かれ縁日には父に連れられ、新井薬師によく出掛けた。
戦争中の友人を戦友と呼んでいたが、新井薬師の商店街に戦友が植木屋をやっていて ずそこに寄って世間話をしていた。
その植木屋の向かいには今でも営業している味噌屋があり、そこでいつも味噌を買って帰った
父は長野の寺の長男だったが味噌屋の主も長野出身だったと記憶している
続けます。