ヨーロッパの冬は夜が長い。
そんな夜をシャネルやコクトーたちは何を話して過ごしたのだろう。
友人のびりーの事を少し。
ビリーはパリ大学(ソルボンヌ)の哲学科を首席で卒業。
日本語をその当時東大から来ていた先生に習い、読み書き、通訳当たり前。
僕の通訳を相手が何処の人間だろうが、同時通訳であった。
生まれはカイロのエジプト人。家族と中東に移住した頃、中東戦争。
そしてヒッチハイクでパリへ入り、パリ大学入学。
大学ではサルトルやヴォーボワールの講義を受けたと言うラッキーな奴。
実存主義の話に止まらない。
日本語、中国語(マンダリン、カントン)、韓国語、イタリア語、スペイン語
ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語などなど全てこなせる。
日本のコミックの翻訳を随分と手掛けていた。
リアルな日本語が覚えられて楽しかったと言う。
年間に3ヶ月から4ヶ月しか働かない自由人。
例えばルーブル美術館には1000回は行っているが未だ見ていないものが沢山有ると言う。
現在66歳。今でもスカイプで話をする友人だ。
さあ、時間が来た夜の8時過ぎになっていた。
「さあ行きましょう。」
と言い汽車まで送ってくれた。
「ゆっくり寝て、起きたらイタリアだよ。」
荷物を置いて、びりーにビズー(ハグして両サイドのキスをするふらんすしきあいさつ)」
「アヴィアントー、ボン ボヤージ」と大きく手を振っているビリーを
映画に出て来るような汽車のドアに立ち見て居た。
まるで映画気分だった。
車輛に入り、寝台の部屋を探す、
あったあった、荷物は殆どない、4人用をビリーは1人用にアレンジしてくれて居た。
誰も気にせずのんびりだ。
早速、汽車の探索。
2輛くらい前にバーとレストランがあった。
今夜はもうレストランは終わっていてバーだけがオープン。
ガヤガヤと立ち飲みしていて、いろいろな言葉が聞こえて来るが
殆どはフランス語、楽しそうだ。
「中国の人?」と
恋人同士のようなふたりから話しかけられた。
ヘビーなフランスなまりの英語でフランス語が交じりながらの会話が始まる。
「一人旅??』と来た。
「はい」
「それで中国から?」
「パリに住んでいるんだけど、日本の東京の街から。」
「私たちは勿論フランス人。東洋の人達は何処の国から来たか
分かり難い」
「文化の違いも余り理解出来なから。」
何処へ行ってもまだまだ日本人とアジア諸国の区別は出来ない事は
当たり前。
フジヤマ、ゲイシャで場所によっては「刀を持って居るのか?」
聞かれてしまう。
車窓からは、少しずつ小さく成って消えて行くパリの景色。
パリを出ると時々村の明かりがポツポツと見えては消えて行く。
コンパートメントに戻り、用意して来たワインと
トランブルーで残ったソーセジをパテを肴に物思い。
そんな時、車掌ではなくスーツ姿の男の人がドアに現れた。
「パスポート』と言って手を出す。
胸には身分証明のような写真入りの札を付けていたが、
それ以外は一般市民と変わらない姿。
英語で話しかけてみたが、手を広げるだけ。
内心、本当に大丈夫?と言った感じだが片手にはパスポートの束を
持っていたので「パスポート」と繰り替えす紳士に従うしかなかった。
国境と言えば、初めてスイス国境を車で越える時に、フランス側は無事出国。
直ぐに今度はスイスの国境。
ヨーロッパで入国管理で厳しいのはイギリスとスイスと言われていた。
そのころ僕はロンゲにヒゲという姿。
完全にそれが引っ掛かってしまった。
持っていたスーツケースのものは細かく調べられ、ご丁寧にスーツケースの
裏地にナイフを入れて切り刻まれた。2時間半の取り調べ。
当時は国境の写真を取ることも許されない時代だった。
後で聞くと、中東で日本人に寄るハイジャックが有り、ヨーロッパに
潜伏しているらしいという事であった。
確かに『何者??」 という感じだったな。
だからこの手の人は苦手であった。
折角、車窓を流れて行く夜景を楽しみ、リラックスしていた気分も
何処かへ消えてしまった。
まあ、一仕事が終わったという感じ。
カーテンを閉め就寝することにした。
汽車はパリからブルゴーニュのディジョン、ボーヌ等を抜け
ジュネーブ(ジュネーブはフランス領とスイス領に分かれている)
避暑地、スキーで有名なシャーモニー。
そしてモンブランのトンネンルを抜けるとイタリアのオアスタという
街へ向う。
そこ迄行くとミラノは目と鼻の先だ。
約10時間の列車の旅が始まった。
続く。
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そんな夜をシャネルやコクトーたちは何を話して過ごしたのだろう。
友人のびりーの事を少し。
ビリーはパリ大学(ソルボンヌ)の哲学科を首席で卒業。
日本語をその当時東大から来ていた先生に習い、読み書き、通訳当たり前。
僕の通訳を相手が何処の人間だろうが、同時通訳であった。
生まれはカイロのエジプト人。家族と中東に移住した頃、中東戦争。
そしてヒッチハイクでパリへ入り、パリ大学入学。
大学ではサルトルやヴォーボワールの講義を受けたと言うラッキーな奴。
実存主義の話に止まらない。
日本語、中国語(マンダリン、カントン)、韓国語、イタリア語、スペイン語
ポルトガル語、ドイツ語、ロシア語などなど全てこなせる。
日本のコミックの翻訳を随分と手掛けていた。
リアルな日本語が覚えられて楽しかったと言う。
年間に3ヶ月から4ヶ月しか働かない自由人。
例えばルーブル美術館には1000回は行っているが未だ見ていないものが沢山有ると言う。
現在66歳。今でもスカイプで話をする友人だ。
さあ、時間が来た夜の8時過ぎになっていた。
「さあ行きましょう。」
と言い汽車まで送ってくれた。
「ゆっくり寝て、起きたらイタリアだよ。」
荷物を置いて、びりーにビズー(ハグして両サイドのキスをするふらんすしきあいさつ)」
「アヴィアントー、ボン ボヤージ」と大きく手を振っているビリーを
映画に出て来るような汽車のドアに立ち見て居た。
まるで映画気分だった。
車輛に入り、寝台の部屋を探す、
あったあった、荷物は殆どない、4人用をビリーは1人用にアレンジしてくれて居た。
誰も気にせずのんびりだ。
早速、汽車の探索。
2輛くらい前にバーとレストランがあった。
今夜はもうレストランは終わっていてバーだけがオープン。
ガヤガヤと立ち飲みしていて、いろいろな言葉が聞こえて来るが
殆どはフランス語、楽しそうだ。
「中国の人?」と
恋人同士のようなふたりから話しかけられた。
ヘビーなフランスなまりの英語でフランス語が交じりながらの会話が始まる。
「一人旅??』と来た。
「はい」
「それで中国から?」
「パリに住んでいるんだけど、日本の東京の街から。」
「私たちは勿論フランス人。東洋の人達は何処の国から来たか
分かり難い」
「文化の違いも余り理解出来なから。」
何処へ行ってもまだまだ日本人とアジア諸国の区別は出来ない事は
当たり前。
フジヤマ、ゲイシャで場所によっては「刀を持って居るのか?」
聞かれてしまう。
車窓からは、少しずつ小さく成って消えて行くパリの景色。
パリを出ると時々村の明かりがポツポツと見えては消えて行く。
コンパートメントに戻り、用意して来たワインと
トランブルーで残ったソーセジをパテを肴に物思い。
そんな時、車掌ではなくスーツ姿の男の人がドアに現れた。
「パスポート』と言って手を出す。
胸には身分証明のような写真入りの札を付けていたが、
それ以外は一般市民と変わらない姿。
英語で話しかけてみたが、手を広げるだけ。
内心、本当に大丈夫?と言った感じだが片手にはパスポートの束を
持っていたので「パスポート」と繰り替えす紳士に従うしかなかった。
国境と言えば、初めてスイス国境を車で越える時に、フランス側は無事出国。
直ぐに今度はスイスの国境。
ヨーロッパで入国管理で厳しいのはイギリスとスイスと言われていた。
そのころ僕はロンゲにヒゲという姿。
完全にそれが引っ掛かってしまった。
持っていたスーツケースのものは細かく調べられ、ご丁寧にスーツケースの
裏地にナイフを入れて切り刻まれた。2時間半の取り調べ。
当時は国境の写真を取ることも許されない時代だった。
後で聞くと、中東で日本人に寄るハイジャックが有り、ヨーロッパに
潜伏しているらしいという事であった。
確かに『何者??」 という感じだったな。
だからこの手の人は苦手であった。
折角、車窓を流れて行く夜景を楽しみ、リラックスしていた気分も
何処かへ消えてしまった。
まあ、一仕事が終わったという感じ。
カーテンを閉め就寝することにした。
汽車はパリからブルゴーニュのディジョン、ボーヌ等を抜け
ジュネーブ(ジュネーブはフランス領とスイス領に分かれている)
避暑地、スキーで有名なシャーモニー。
そしてモンブランのトンネンルを抜けるとイタリアのオアスタという
街へ向う。
そこ迄行くとミラノは目と鼻の先だ。
約10時間の列車の旅が始まった。
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