「芸術」という言葉くらい定義があやふやなものはない。
全く評価されなくても、「評論家」や「専門家」が評価すると、途端に価値が上がったりする、極めて曖昧なものなのだ。

印象派、バレエ・リュス、ストラビンスキー、etc・・・。
枚挙にいとまがない。

プッチーニやガーシュインも「芸術家」という肩書きを手に入れるには膨大な時間が必要であったことだろう。

その時代、時代の力を持ったものの評価が「スタンダード」になるのかもしれない。



「好み」というのがあるのも、芸術のもつ特異なことの1つだ。
好き・嫌いというのは、誰にでもある。

誰にとっても素晴らしいものというものは存在しないのだ。


フィギュアはスポーツであると同時に、表現芸術の1つである。
その「芸術性」ゆえに、評価が分かれることは良くあった。

特にアイスダンス。
一昨季までは、北米のダンサーには、欧州で得点が出ない傾向が強かった。
北米のアイスダンスは社交ダンスをベースにし、ロシアはバレエをベースにしていると言われている。
その素地の違いを除いても、欧州と北米では得点の出方が全く異なったのだ。
「傾向」の違いが、ジャッジの「好み」となって得点に現れたのであろう。

また、アイスダンスは欧州のもので、
欧州は北米を(更に白人は黄色人種、黒人を)、蔑む傾向が強かったのも事実である。

なぜか、アイスダンスも他の種目と同様に、五輪シーズンでは、北米の評価が高くなったが、
それは長年アイスダンスに親しんできたファンから見ると、もはやアイスダンスとはいえない代物であろう。

そう、フィギュアの世界で、力を持った者達が、新たな「スタンダード」を作ったのだ。
アイスダンスはペア化、ペアとシングルはアイスダンス化。
そして、全てに「表現力」が求められる。


フィギュアでの「芸術性」「表現力」も評価が分かれるものであった。
いわゆるジャッジの「好み」によって。

しかし、今はどうであろう?
特定の選手に、決まったような同じ傾向で得点が出るようになっている。
大会が違えば、高い点が出る項目、+の出方は違っても、その得点はほぼ一律だ。
不思議なことだ。


また、表現力は技術でカバーできるものであるが、
例えば、浅田真央の仮面舞踏会のショートバージョンとフリーバージョンの違いのように、
気迫や、心を込めることで生まれることもある。



前置きが長くなったが、
私が言いたいことは、
自分が素晴らしいと思う演技が素晴らしい、ということ。

あなたが心打たれたものが、素晴らしいのだ。

薔薇と百合のどちらが美しいか、議論する人はいまい。

あなたの素晴らしいと思うものが素晴らしい。
私は「ジャッジ」や「マスコミ」や、
マスコミやISUに操られる「関係者」の評価は、
取るに足らないものと思っている。
あなた自身の「評価」が大事なのだ。



私は「鐘」は素晴らしい芸術的なプログラムであると思う。
何度も感動を貰った。
キムのガーシュインについては、全く芸術性は感じないし、感動もしなかった。

しかし、それは私の「感想」であり、私が考える「芸術性」である。

もし、キムの演技に感動し、素晴らしいと思う方にとっては、
キムが芸術となると思う。
キムの高得点や、憎き敵である日本を倒したことではなく、
「表情」やさして出てもいない「スピード」などで評価するのではなく、
純粋な感動というものが与えられているのであれば。



また、真の芸術というものは、誰の心でも感動させることが出来るものだと思う。

トリノの世界選手権では、ケビン・ヴァン・デル・ペレンの演技に私は感動した。
お世辞にも芸術性が高いとは言えない彼のプログラムで。
彼の4-3-3は芸術であり、それが与えてくれた感動は、4分半の演技を通して余韻を残した。



専門家の意見に拘る必要もない。
自分が素人だからと蔑む必要はもっとない。
あなたが、見た時の感想が「良い」か「悪い」だけで良いのだ。
そして、大事なことは、心が動かされたか。
それがシンプルな「芸術性」の「評価」であると思う。



現在、なぜ、我々、素人がルールを一生懸命、勉強しているのだろうか?

従来は、試合の結果が、
素人の「良い」「悪い」と結果が著しく乖離することがなかった。

今は、その乖離が大きすぎるので、我々は、勉強するハメになった。

しかし、ISUジャッジ等の「関係者」は我々の勉強が足りないという。
ばかげたことだ。


点数については、勉強しよう。
しかし、芸術性については、自分の目を信じていこう。



ISUのルールがどう変わるか分からない。

しかし、ルールはシーズンが始まってみないとその正体は全く分からないであろう。

日本の法律のようだ。
新しい法律が出ても、誰もその意味はわからない。
「判例」が出て、初めて、その法律の用途が分かるのだ。

ISUのルールはもっと厄介である。
大会よって「運用」が更に変わったりする。
五輪前に急に「兄弟ジャンプ」の価値が上がったように。
男子と女子では全く評価基準が違うように。

どうも、ジャッジの裁量が大きくなりそうで、不安が大きい。
GPシリーズのアサインを見ても、邪推しようと思うと、いくらでも邪推できる。

新たなシーズンに向けて、不安は尽きないが、全てが杞憂に終わることを祈ろう。


我々に出来ることもある。
「監視」を続けることだ。
そして、あまりに酷い時は、声を上げることだ。



幸か不幸か、今年の東京ワールドは東京だ。
あまりにもおかしなことは起きないであろう、と思いたい。

GPFでは、その期待は裏切られたが、
最も権威のあるチャンピオンシップでは、その権威が守られることを祈る。