今のフィギュアスケートで評価される「表現力」はダブルスタンダードだ。
女子は顔の表情のみ、
男子は音楽表現のみ。

どちらの定義も間違っている。

表現力とは、一つのくくりで表せるものではない。
5つのコンポーネンツで表せるものでもない。

どれだけ観客の心を動かせるか、ということではないだろうか。


五輪代表の日本女子3名は、それぞれ素晴らしい表現力を持っている。
世界でベスト3だろう。

浅田真央は、ロシアバレエに基礎を置いた、身体表現が素晴らしい。
そして、音楽表現も踊り分けるということも出来る。
仮面舞踏会を昨季のフリーと今季のショートで演じ分け、
更に「鐘」という重厚な曲の世界を見事に表現した。


安藤美姫は、気持ちが入れば素晴らしい演技となる。
昨季のGPFと世界選手権は本当に素晴らしかった。
今季もレクイエムは素晴らしい。SPもエキシピションも。
コンスタントに気持ちを込めれるようになってくれれば、どんなに素晴らしいだろう。

鈴木明子は観客を無条件に引き込む。
曲によって違う表現が出来る。
昨季のタンゴがあまりにも素晴らしかったので、今季のウエストサイドストーリーはいまいちだと思っていた。
しかし、滑り込むにしたがって、徐々に自分のものとし、ついに華やかに艶やかにまるで歌うかのように表現できるようになった。


日本女子3選手が、舞台女優であるとしたら、フェイク・クィーンはTVタレントである。
そのくらいの差がある。
(悲しいことに、それに日本のマスコミとISUのジャッジは気付いていないようだ。)
彼女達はアーティストだ。素晴らしい芸術家だ。


芸術として、表現するということを分かりやすく説明するとしたら・・・、
「白鳥の湖」が分かりやすいと思う。

「白鳥の湖」は悪魔の呪いで白鳥に変えられたオデット姫を王子が助けようとする。
舞踏会でオデットそっくりに化けた悪魔の娘オディールが現われる。王子はだまされ、オディールを花嫁として選んでしまい・・・
というストーリーだが、この演目の一番の見所は、1人のプリマにより、白鳥オデットと黒鳥オディールが演じ分けられるところだ。

プリマは表情も使ってはいるが、「踊り」で演じ分けている。
私の好きなザハロワで見てみよう。その違いが分かるだろう。

白鳥オデット


黒鳥オディール




何を滑っても同じようにしか見えないフェイク・クィーンに演じる力はなく、
表現力はない。
ましてや、彼女の滑りは芸術ではない。
(フェイク・クィーンのことを、あの解説者は「乞食から王女まで演じ分けれる」といったが王女を演じること出来ないだろう。
ダンサーは、踊ると本質が見えるというが、彼女の踊りには卑しさ、厭らしさしか感じない。)



そして、私はプルシェンコのジャンプも芸術であると思う。
技を極めれば、それは芸術となると思う。

彼のプログラム構成ではPCSが出そうになく、若干心配ではあるが、
たった4年で評価基準が変わってしまうことの方がおかしいのだ。
明確な基準もなく。

今のPCSは単なる点数調整にしか使用されていない。
おかしなことだ。