先週の山の片づけをした午後のこと、コシアブラの芽を採りにわが家の山を巡りました。
おとなりの山との境界は尾根になっていて、その尾根を登っていきます。
道は眼下に見えてきました。

林床のチマキザサ。クマザサとかクマイザサなどとも呼びます。ササもなかなか難しいですね。
チマキやナタ巻きや笹巻きに使う葉のササがこれです。
ササの無いところの林床は、雪が消えて間もないので昨年の草の茎などは雪に地面に押されており、すっきりした印象ですが、ササのあるところはもっさりした感じになっております。

似ておりますが、こちらはチシマザサ。
こちらは、ネマガリタケ、ササダケ(ススダケとも呼ぶのを聞きますが、「ササ」の訛りであろうかと思っています)です。これは、もうちょっと時期が進むとタケノコが採れます。
孟宗竹のタケノコと違って手指ほどの太さで、アク抜きしなくてよいくらいにすっきりした美味しいタケノコが採れます。山形でタケノコというと、こちらのタケノコのほうがメジャーなほどかもしれません。背の高さも、幹の太さも、葉の出方もチマキザサと異なっております。

うちの山は、ふもと近くはコナラが多いのですが、ちょっと登るだけでミズナラやブナが見えるようになってきます。
ブナは、山登りに行く先のものほど太いものはないのですけれど。
新緑を迎えておりました。

やたらと赤味の強いブナの葉がありました。
葉には、ブナの仲間(コナラやミズナラにも)の葉によく見かけるクチブトゾウムシの仲間がいました。ゾウムシやチョッキリやオトシブミのよく見かける季節になったのですね。

ブナのある程度育った木の根元は、すっきりとしていることが多くあります。
ブナの極相のようになった森のなかではこんな様子を見かけますね。

いえいえ、コシアブラの芽を採りにきたのでした。
この写真の左下から伸びている木がコシアブラです。
これは背が高すぎて採れません。

こちらはまだ若すぎて時期がちょっとだけ早いようです。
群青色の金属光沢のあるハムシがついていました。良く見ると宝石のように綺麗です。

これが採るのにちょうどよいコシアブラの新芽なのですが、木そのものがまだ幼木で、今年にこの芽を採ってしまうとあとは枯れるしかありません。

コシアブラの芽を採るのに適したのは、直径5cmくらいになって高さも4mほどになったものでしょうか。コシアブラはすいっと地面から幹を一本伸ばして育つのですが、幹が思いのほか柔らかで、木につかまって手繰り寄せると素直に曲がってきます。そして、芽の全部を採るのでなく、ぼくの場合は、付いた芽の1/3ほどを、芽の位置などを勘定していただくのでした。
ちいさな木は、残しておけばそのうちに育ってちょうどよくなり、大きな木はまわりのちょうどよい木がなくならないように親分のように山にあればよいのです。
毎年、この季節になると街のほう、あるいは県外からも山菜採りにたくさんの人がやってきては、集落近くのやあや畑や田んぼに無断で侵入してあれこれ採っていきます。地元の人は、「ここは誰々さんの山、ここからは国有林」などわかっているので無茶なことはしません。
どこかから来た方のなかには、コシアブラの大きな木を切り倒して芽を採ったり、やたらちいさな木からも芽を全部採って行ったりします。
コシアブラに限らず、私有地の山へ入っての山菜やきのこ採り、農作物盗難の被害は、実のところかなり多くあります。
うちでは過去にウドやワラビを畑や林床で栽培して出荷したり、ナメコとシイタケも植えて出荷していたのですが、便利のよい道近くの場所だとほんとうにねこそぎ採っていかれるために出荷しなくなってしまいました。
本屋さんに行くと、山菜採りの本などがあったり、アウトドア系の雑誌などにも特集があったりして、いかにも一般の方も山菜採りしてよい雰囲気になっており、実際のところ、山菜ならばどこから採ってもよいのだというように解しているかたが多いのです。
法にてらせば、ほかのかたの敷地からなにか採れば(盗れば)窃盗罪、山林からなにか採れば森林窃盗というのが設定してあり、まして国立公園内の特別保護地域では草を抜いたり、ちいさな木を一本切っただけで検挙というのもあることなのです。(ぼくの所属している山岳会では、登山道整備のために倒木を片付けたり、下草を払ったりするのですが、これは県から委託を受けるかたちで実施していて、「こういう箇所は草を払います。こういう箇所まではしません」というようなことや、倒木を切る場合でも、作業前後の写真を撮っておくなど記録してやっているのです。)
難しい、なんだか嫌なせちがらい話だなあと思ってしまうわけですが、ぼくも個人的には、せっかく街からやってきたかたならば、おうちの夕飯にちょこっとだけ、道端のものをいただくくらいなら・・・というように思っております。ところが、中には悪質な方が、栽培しているのをわかった上で、民家近くまでやってきてはごっそり盗んでいくのですね。そういったことがたびたびあり、コシアブラの大きな木を切り倒したり、ほかの山菜でも次の年には採れなくなってしまうような方法で採っていく(どろぼうですから、その時に採れれば次の年など関係ないわけです)ために、山あいで静かに暮らしたい方たちの気持ちも荒立ってきてしまうのです。
過去に捕まえた採りに来る方の言い分では、「山はみんなのもので」だとか、「自然に生えてくるものを採ってなにがいけない」だとかいろいろ言う方があるわけですが、植えてあるものなら当然のこと、手入れしてあるから採れるということもあるわけで、山の幸が採れる時期だけいきなり山好きになり、人が植えたところからもねこそぎ採って、悪質な人ほど「おいらは山の達人だ。ナチュラリストなのだ、自然と共存しておるのだ」というようなことを言うのでちゃんちゃらおかしいことです。
集落の集まりなどで山菜泥棒の話になると、「そんなに山が好きなら山の近くに住んだらよろしい、冬は雪下ろしをして暮らし、山も自ら汗して手入れして採ったらよい。街にはなんでもあるのだから、ビフテキでも食べていたらよろしい」ということになります。
山菜にしても魚釣りにしても下手な人ほど採れる時にねこそぎ採るものだというのはありますね。採れる理屈のわかるかたならば、またいつでも採れるのだから要る分だけ、美味しいところだけ採るのでよいわけです。
つまらないはなしをしました。
書き出したらいくらでも書けるのですが、その分また自分も嫌な気持ちになってきますね。
虚空蔵様、虚空蔵様、つまらぬことで腹を立てる未熟なロッキーチャックをお許しください。

オクチョウジザクラは今も花が咲いており、小亀のような葉を広げています。

ふもとへ降りてくると、畑のふちにもキバナノアマナが咲いておりました。

こんなことをしている間に、田んぼもしろかきまで季節が進みました。
おとなりの山との境界は尾根になっていて、その尾根を登っていきます。
道は眼下に見えてきました。

林床のチマキザサ。クマザサとかクマイザサなどとも呼びます。ササもなかなか難しいですね。
チマキやナタ巻きや笹巻きに使う葉のササがこれです。
ササの無いところの林床は、雪が消えて間もないので昨年の草の茎などは雪に地面に押されており、すっきりした印象ですが、ササのあるところはもっさりした感じになっております。

似ておりますが、こちらはチシマザサ。
こちらは、ネマガリタケ、ササダケ(ススダケとも呼ぶのを聞きますが、「ササ」の訛りであろうかと思っています)です。これは、もうちょっと時期が進むとタケノコが採れます。
孟宗竹のタケノコと違って手指ほどの太さで、アク抜きしなくてよいくらいにすっきりした美味しいタケノコが採れます。山形でタケノコというと、こちらのタケノコのほうがメジャーなほどかもしれません。背の高さも、幹の太さも、葉の出方もチマキザサと異なっております。

うちの山は、ふもと近くはコナラが多いのですが、ちょっと登るだけでミズナラやブナが見えるようになってきます。
ブナは、山登りに行く先のものほど太いものはないのですけれど。
新緑を迎えておりました。

やたらと赤味の強いブナの葉がありました。
葉には、ブナの仲間(コナラやミズナラにも)の葉によく見かけるクチブトゾウムシの仲間がいました。ゾウムシやチョッキリやオトシブミのよく見かける季節になったのですね。

ブナのある程度育った木の根元は、すっきりとしていることが多くあります。
ブナの極相のようになった森のなかではこんな様子を見かけますね。

いえいえ、コシアブラの芽を採りにきたのでした。
この写真の左下から伸びている木がコシアブラです。
これは背が高すぎて採れません。

こちらはまだ若すぎて時期がちょっとだけ早いようです。
群青色の金属光沢のあるハムシがついていました。良く見ると宝石のように綺麗です。

これが採るのにちょうどよいコシアブラの新芽なのですが、木そのものがまだ幼木で、今年にこの芽を採ってしまうとあとは枯れるしかありません。

コシアブラの芽を採るのに適したのは、直径5cmくらいになって高さも4mほどになったものでしょうか。コシアブラはすいっと地面から幹を一本伸ばして育つのですが、幹が思いのほか柔らかで、木につかまって手繰り寄せると素直に曲がってきます。そして、芽の全部を採るのでなく、ぼくの場合は、付いた芽の1/3ほどを、芽の位置などを勘定していただくのでした。
ちいさな木は、残しておけばそのうちに育ってちょうどよくなり、大きな木はまわりのちょうどよい木がなくならないように親分のように山にあればよいのです。
毎年、この季節になると街のほう、あるいは県外からも山菜採りにたくさんの人がやってきては、集落近くのやあや畑や田んぼに無断で侵入してあれこれ採っていきます。地元の人は、「ここは誰々さんの山、ここからは国有林」などわかっているので無茶なことはしません。
どこかから来た方のなかには、コシアブラの大きな木を切り倒して芽を採ったり、やたらちいさな木からも芽を全部採って行ったりします。
コシアブラに限らず、私有地の山へ入っての山菜やきのこ採り、農作物盗難の被害は、実のところかなり多くあります。
うちでは過去にウドやワラビを畑や林床で栽培して出荷したり、ナメコとシイタケも植えて出荷していたのですが、便利のよい道近くの場所だとほんとうにねこそぎ採っていかれるために出荷しなくなってしまいました。
本屋さんに行くと、山菜採りの本などがあったり、アウトドア系の雑誌などにも特集があったりして、いかにも一般の方も山菜採りしてよい雰囲気になっており、実際のところ、山菜ならばどこから採ってもよいのだというように解しているかたが多いのです。
法にてらせば、ほかのかたの敷地からなにか採れば(盗れば)窃盗罪、山林からなにか採れば森林窃盗というのが設定してあり、まして国立公園内の特別保護地域では草を抜いたり、ちいさな木を一本切っただけで検挙というのもあることなのです。(ぼくの所属している山岳会では、登山道整備のために倒木を片付けたり、下草を払ったりするのですが、これは県から委託を受けるかたちで実施していて、「こういう箇所は草を払います。こういう箇所まではしません」というようなことや、倒木を切る場合でも、作業前後の写真を撮っておくなど記録してやっているのです。)
難しい、なんだか嫌なせちがらい話だなあと思ってしまうわけですが、ぼくも個人的には、せっかく街からやってきたかたならば、おうちの夕飯にちょこっとだけ、道端のものをいただくくらいなら・・・というように思っております。ところが、中には悪質な方が、栽培しているのをわかった上で、民家近くまでやってきてはごっそり盗んでいくのですね。そういったことがたびたびあり、コシアブラの大きな木を切り倒したり、ほかの山菜でも次の年には採れなくなってしまうような方法で採っていく(どろぼうですから、その時に採れれば次の年など関係ないわけです)ために、山あいで静かに暮らしたい方たちの気持ちも荒立ってきてしまうのです。
過去に捕まえた採りに来る方の言い分では、「山はみんなのもので」だとか、「自然に生えてくるものを採ってなにがいけない」だとかいろいろ言う方があるわけですが、植えてあるものなら当然のこと、手入れしてあるから採れるということもあるわけで、山の幸が採れる時期だけいきなり山好きになり、人が植えたところからもねこそぎ採って、悪質な人ほど「おいらは山の達人だ。ナチュラリストなのだ、自然と共存しておるのだ」というようなことを言うのでちゃんちゃらおかしいことです。
集落の集まりなどで山菜泥棒の話になると、「そんなに山が好きなら山の近くに住んだらよろしい、冬は雪下ろしをして暮らし、山も自ら汗して手入れして採ったらよい。街にはなんでもあるのだから、ビフテキでも食べていたらよろしい」ということになります。
山菜にしても魚釣りにしても下手な人ほど採れる時にねこそぎ採るものだというのはありますね。採れる理屈のわかるかたならば、またいつでも採れるのだから要る分だけ、美味しいところだけ採るのでよいわけです。
つまらないはなしをしました。
書き出したらいくらでも書けるのですが、その分また自分も嫌な気持ちになってきますね。
虚空蔵様、虚空蔵様、つまらぬことで腹を立てる未熟なロッキーチャックをお許しください。

オクチョウジザクラは今も花が咲いており、小亀のような葉を広げています。

ふもとへ降りてくると、畑のふちにもキバナノアマナが咲いておりました。

こんなことをしている間に、田んぼもしろかきまで季節が進みました。