もう二年目になります。早いのか、遅いのかわかりませんが、それ以前とはちょっと違った密度の日々を暮らしているのだろうという感じがしています。

岩手、宮城、福島はじめ太平洋沿岸部のこと、その後のことが、いろんな媒体で再び伝えられています。
ガラスが割れたり、道路がゆがんだり、建物がいくらか潰れたりはしましたけれど、山形は直接なにかが壊れたりしたのは割合に少なかったのです。
その後に観光分野や農業分野で影響は大きくありましたけれど。
揺れてすぐに出先から戻り、ちょっと時間をもらって近所のじいさま、ばあさまの様子を見に帰った覚えがあります。この年も割合に雪が多く、最初に気になったのは道路が雪崩で通れなくなっているところはあるまいか?ということもありました。
停電だったためにテレビもネットも見られず、携帯電話のちいさなテレビをみんなで集まって見たり(電池が無くなってあまり見られなかった)、ラジオで聞いたりしただけでした。携帯電話のアンテナも電気供給が無いためか、不通になったままでした。津波によりたいへんなことになったのを詳しく知ったのは翌日の電気が復旧した後でした。

上の写真は、当日でなく後日に撮ったものでした。
当日の写真は、一枚もありません。その後数日間もほとんど撮っていません。
思い出してみれば、直後に家に一度帰って、その後は幾日か仕事してそのまま事務所で眠ったりしたような記憶があります。
数日後、コンビ二の棚はからっぽになりました。
山形の物流は仙台経由のものがたいへんに多く、なにも入ってこなくなっていました。
地震から半月間ほどはガソリンがまったく無くなってしまいました。
ガソリンスタンドには長蛇の列が出来ていました。宮城と福島から給油や食糧の買出しに来ているかたもあり、そちらの方に買ってもらおう、という声も聞かれたりしました。(我先にと買った方もいるようですが)
この時のガソリン不足の記憶からか、ぼくは以前にはクルマで遠くまで運転するのが好きだったのですが、これ以降はほんとにクルマでの遠出はしなくなりました。ガソリンを使いたくないというのと、遠くに居るときになにかあったら戻れないかもしれないとちょっと怖さを感じているのもあるかもしれません。田舎に暮らすのは環境に良さそうなイメージがありそうですが、ガソリン消費の点では公共交通機関がほとんど無いためにクルマに頼りきりなのです。申し訳なく思っています。

ガソリン不足が解消されたころから、宮城県沿岸部で泥かきや壊れた家の撤去の手伝いに幾度か行ったことがありました。海近くは、ほんとに何にも無くなってしまったところもあり、こんなことがほんとうに起き得るものなのだ、と信じられなく思いました。
海近くの堤防の脇のサクラは海水にどっぷり浸かっただろうにしっかり花を咲かせていたのを覚えています。

当日から数日間は、もうこれからは、山形ですら今までと同じ日常を暮らす日はこないのかもしれないと思ったりしていました。
今はすっかり戻ったようにも見えたりしますが、上のサクラの堤防近くの場所へしばらく前に行った際には、沿岸部はほとんど当時と同じ状態の更地のようなところも多くありました。田んぼには相変わらずなにかの残骸があったり、場所によっては重機での土地の整理中だったり。
山形には福島から来たまま、帰りたいけれど帰られないかたが多くいます。
二年後の今日はというと、休日出勤もあったりしたのでお休みをいただいていました。
各地でイベントなどがあるのを知ってはいたのですが、足が向かいませんでした。
う~ん、上手く言えませんが、特別なことをしたくないというのでしょうか。そんな気持ちがあります。
忘れてしまいたいとか、忘れてしまったのでなくて、忘れえないゆえに、特別なことをしてしまうとまたなにか、あの日に戻ってしまうのでないか、そんな気持ちのひっかかりがありました。
家にもじっとしていられなかったので、ちょっとだけ山に行ったのですが・・・。
あれからの変化のひとつとして、大地とともにありたい、そんな変化が特に若い年代に出てきたような気がしています。都会に出て暮らしていた方が、地元に戻られたり、農業をはじめたいという方も、微妙にではありますが、増えてきたような感じがしています。
地面は時折揺れたりもしますが、地面から離れて、山や川や海から離れてはヒトは生きていかれないのだという実感があるのだろうと思っています。
エネルギー問題や情報化や経済や科学技術や政治や、そういったことは難しくてぼくにはわかりません。
だけれど地面から芽が出て育つと食べることができる、植物が生えて育つこと無しになんぴとも生きていかれないというのはたしかなことだろうと思っています。

岩手、宮城、福島はじめ太平洋沿岸部のこと、その後のことが、いろんな媒体で再び伝えられています。
ガラスが割れたり、道路がゆがんだり、建物がいくらか潰れたりはしましたけれど、山形は直接なにかが壊れたりしたのは割合に少なかったのです。
その後に観光分野や農業分野で影響は大きくありましたけれど。
揺れてすぐに出先から戻り、ちょっと時間をもらって近所のじいさま、ばあさまの様子を見に帰った覚えがあります。この年も割合に雪が多く、最初に気になったのは道路が雪崩で通れなくなっているところはあるまいか?ということもありました。
停電だったためにテレビもネットも見られず、携帯電話のちいさなテレビをみんなで集まって見たり(電池が無くなってあまり見られなかった)、ラジオで聞いたりしただけでした。携帯電話のアンテナも電気供給が無いためか、不通になったままでした。津波によりたいへんなことになったのを詳しく知ったのは翌日の電気が復旧した後でした。

上の写真は、当日でなく後日に撮ったものでした。
当日の写真は、一枚もありません。その後数日間もほとんど撮っていません。
思い出してみれば、直後に家に一度帰って、その後は幾日か仕事してそのまま事務所で眠ったりしたような記憶があります。
数日後、コンビ二の棚はからっぽになりました。
山形の物流は仙台経由のものがたいへんに多く、なにも入ってこなくなっていました。
地震から半月間ほどはガソリンがまったく無くなってしまいました。
ガソリンスタンドには長蛇の列が出来ていました。宮城と福島から給油や食糧の買出しに来ているかたもあり、そちらの方に買ってもらおう、という声も聞かれたりしました。(我先にと買った方もいるようですが)
この時のガソリン不足の記憶からか、ぼくは以前にはクルマで遠くまで運転するのが好きだったのですが、これ以降はほんとにクルマでの遠出はしなくなりました。ガソリンを使いたくないというのと、遠くに居るときになにかあったら戻れないかもしれないとちょっと怖さを感じているのもあるかもしれません。田舎に暮らすのは環境に良さそうなイメージがありそうですが、ガソリン消費の点では公共交通機関がほとんど無いためにクルマに頼りきりなのです。申し訳なく思っています。

ガソリン不足が解消されたころから、宮城県沿岸部で泥かきや壊れた家の撤去の手伝いに幾度か行ったことがありました。海近くは、ほんとに何にも無くなってしまったところもあり、こんなことがほんとうに起き得るものなのだ、と信じられなく思いました。
海近くの堤防の脇のサクラは海水にどっぷり浸かっただろうにしっかり花を咲かせていたのを覚えています。

当日から数日間は、もうこれからは、山形ですら今までと同じ日常を暮らす日はこないのかもしれないと思ったりしていました。
今はすっかり戻ったようにも見えたりしますが、上のサクラの堤防近くの場所へしばらく前に行った際には、沿岸部はほとんど当時と同じ状態の更地のようなところも多くありました。田んぼには相変わらずなにかの残骸があったり、場所によっては重機での土地の整理中だったり。
山形には福島から来たまま、帰りたいけれど帰られないかたが多くいます。
二年後の今日はというと、休日出勤もあったりしたのでお休みをいただいていました。
各地でイベントなどがあるのを知ってはいたのですが、足が向かいませんでした。
う~ん、上手く言えませんが、特別なことをしたくないというのでしょうか。そんな気持ちがあります。
忘れてしまいたいとか、忘れてしまったのでなくて、忘れえないゆえに、特別なことをしてしまうとまたなにか、あの日に戻ってしまうのでないか、そんな気持ちのひっかかりがありました。
家にもじっとしていられなかったので、ちょっとだけ山に行ったのですが・・・。
あれからの変化のひとつとして、大地とともにありたい、そんな変化が特に若い年代に出てきたような気がしています。都会に出て暮らしていた方が、地元に戻られたり、農業をはじめたいという方も、微妙にではありますが、増えてきたような感じがしています。
地面は時折揺れたりもしますが、地面から離れて、山や川や海から離れてはヒトは生きていかれないのだという実感があるのだろうと思っています。
エネルギー問題や情報化や経済や科学技術や政治や、そういったことは難しくてぼくにはわかりません。
だけれど地面から芽が出て育つと食べることができる、植物が生えて育つこと無しになんぴとも生きていかれないというのはたしかなことだろうと思っています。