昨日の記事でお知らせしたとおり、今日は文化遺産シンポジウムというのに行ってきました。
この記事は昨晩に書き始めたのですが、ずいぶん長くなってしまい夜更かしにもほどがあるだろうという具合だったので今朝のアップになりました。

タイトルに「歴史の息吹を感じる」とあり、ずいぶんと気合がはいっております。
冊子も渋い雰囲気のいかにも調査報告書、という感じに作られておりました。
このなかに、今回の資料がデータとともに載っています。(論文のようにしてまとめてあるのですね)
山の草とか花とか虫とか-シンポジウムの冊子

会場はいつもこういった発表がある際には、街のほうのかたが多いのですが、今回は、うちの近くのいくつかの集落の調査をしたためにうちの近所の方々が多く参加しておりました。
うちのおとなりのとうちゃんも来ていました。
山の草とか花とか虫とか-会場の様子

発表は、最初に、文化財がこれまでは単体と「モノ」としての価値を指定したりしてきたのが、それがやはり、例えば仏像であればその文化財の生まれた地域の中に、祈りの中にあってこそ意味があるのだろうというようになってきたのです。というおはなしがありました。
山の草とか花とか虫とか-文化財について

その次に、民俗学の著名な方から、うちの近くの山村での江戸から明治期の歌会(短歌を詠むのです)や、街の祭礼のにぎわったこと、それらが最上川舟運とアオソという特産品により成り立ってきたのだということのおはなしがありました。
2012年12月18日「文化的景観というかんがえかた
で書いた街のにぎわいのおはなしの内容とだいたいおんなじです。
最上川舟運で町が発達したのだということがひとつの重要文化的景観の内容になっているのですが、そのためにはそれを使って運ぶ産物が必要なのであって、農山村での生産がなければ成り立たないものでもあったのですね。
また、街が街として発展して商店などがたくさんできたのですが、それは売る先が無ければいけないわけです。
かつては、街から山のほうへ行商にやってきて御用聞きなどをやり、それを「沢筋を登る」というように表現しておりました。その形式は、今でも魚屋さんが集落に移動販売車でやってくる様子にも伺うことができます。
この街からは、朝日連峰の主稜線の東にいくつも点在する集落に行ったそうです。今の行政区割りの町とはまたちょっと違ったつながりがあったのだそうです。
また、「山村での江戸から明治期の歌会」は、今も短歌の額が残っており、つまり、江戸期の農民であるところの山村のひとたちはうちの近くでは歌を詠い、文字を読み書きし、そういうふうにかなり教養の程度が高く過ごしていたのだそうで、民俗学を長くやられておるその教授さんも調査の際には、昔の農村のイメージを覆させられたのだと言っておりました。

その次には、個別の若い研究者の発表が三つほど。

最初に、うちの集落にもある仏像を作った仏師一族のおはなしでした。
いくつもの例が挙げられたのですが、この写真はうちのちかくの大日堂の仏像の弘法大師坐像だそうです。
ぼくもいつも行くところですが、仏像そのものは仕切りの幕の向こうにいらっしゃるものだから恐れ多くてお顔はあまり拝見したことがありません。調査によると、ずいぶん丁寧に作られた造形の美しいものだそうです。1837年(天保8年)の作。この一族の2代目のものだそうです。
この一族の仏像の特徴として、京都から伝承の技術ではあるものの、山形に自生している樹種を用いて、寄木でなく一本の木を削りだして作ったものが多いということでした。シナノキ、イチイ(資料はイチイでしたが、山形ならキャラボクだろうと思いました)、マツ、ヤナギなどを用いたそうです。
山の草とか花とか虫とか-大日堂の仏像
このほかにも、この仏師一族作のものは、あちこちに相当の数が現存しているそうです。
実は、わが家の個人蔵としても仏像がひとつうちの仏壇のとなりにあって、それもこの一族の4代目。1892年(明治25年)作のものだそうで、これも朝日連峰東側のそれぞれの集落に88箇所の参拝の箇所を設けた際に作ったものなのだそうです。
この仏師の出自はどういったところなのかというと、京都の「七条左京家」という七条仏師と呼ばれた運慶や快慶(歴史の教科書に出てきましたね)なども含む集団の流れを汲むものだそうです。(ずいぶん大きなおはなしになってきましたね)
これも、京都と最上川の物流のためにつながりがあった、ということが読み取れるのだそうです。

ふたつめに、2012年11月20日「茅葺屋根のあるところ 残ったものと残すこと」で書いていた集落の民家の構造について調べた調査の発表でした。

個人宅の間取りなので、シンポジウムの発表の際は、お名前も書いてあったのでしたが、ここに載せるために一部消してあります。
このおうちは、江戸期に建てられたもので、家柄としては「オヤガッサマ」(おやかたさま)と呼ばれるこの地の名主のようなところだったそうです。
研究のかたは、こういった家の構造からあれこれと読み取って、現地で実測をして柱に残る増改築の痕跡を探ったりしたのだそうです。
$山の草とか花とか虫とか-住宅調査
ここでも、寸法が関西圏と共通のものになっていたり、屋根の構造では山形の内陸部の特徴と、庄内の日本海側沿岸部の特徴とが混じっており、そういったことは今回の調査で判明したのだそうです。

もうひとつの家は、名主でなく、一般の家という例で紹介されておりました。
このおうちでは、増改築した形跡があり、昔の間取りと時代とを読み取ってみると、この改築はアオソの生産から、養蚕へ変化したころのものだろうということでした。
養蚕は、カイコを飼うスペースが要るために家を広くしたのだそうです。
山の草とか花とか虫とか-住宅変遷
おうちの様子から、産業の変化の影響などを読み取るような視点が面白いものだなあと思って聞いておりました。

たびたび出てくるアオソはなにかというと、このときの記事に紹介しておりました。
2011年09月13日「わたとアオソ 繊維をとるもの
アオソ(カラムシ)自体は全国各地で栽培されるのですが、そのなかでも最高級とされるものは、朝日連峰の東側の山奥の集落や福島の飯豊の南のあたりに限られるのだとのことです。
アオソの場合には茎から繊維をとるのですが、そのためには茎を長く、節を少なくする必要があり、そうなるためには風の強い平地は栽培に向かないのだそうです。
朝日連峰がついたてになり、山奥のせまい谷間で風の弱いところが良質の産地になったのですね。
うちの近くのアオソは、能登や越後から買い付けにきたという記録もあって、それらの布(上布というもの)の生産の原料がこちらだったのです。
上布はたいへんな高級品だったでしょうから、その材料に対しても金銭的なうるおいというのは大きかったと見えて、それが山あいの集落の歌を詠む風習や造仏活動の源になったのですね。
茅葺の集落の家のつくりの変遷や、歌の額が作られなくなったのは明治30年ごろだそうで、養蚕に切り替わり、アオソが必要とされなくなった産業の変遷を感じることができます。

昨夜は、父が集落の寄り合いに行き、来年のいろんな行事の日程を決めてきました。
今回調べられた仏像のある大日堂。昨年の1月はじめには、初参りのために雪の階段になっていました。
山の草とか花とか虫とか-大日堂

おなじく1月中におさいとうがあり、その際にも大日堂に集ってお参りをします。
山の草とか花とか虫とか-雪の階段

仏像の造形的な価値があろうとなかろうと、このように普段の祈りの中にあるお堂ですから、その集落において何百年もなむなむと拝んできたというその事実の積み上げ自体が価値であるのだなあと思うので、ぼく自身は、その仏像が造形的に立派だとかそういうのは気にならないところなのですが、ひとつの物的証拠として文化財としての仏像がある、と。

地域文化遺産というように書いてあるわけですが、では地域とはなにか?ということだと、それは「わたしは○○村の村民です」というように宣言できるかたの集まりというように思います。
「わたしは山形県民です」と自ら宣言できる人のひとかたまりが、すなわち県というものなのでしょう。
たとえば、「わたしはパリっ子です」と宣言する方がたくさん集まったらそりゃあパリだろうと。
でも、やはりエッフェル塔も要るだろうとなれば、それが心のよりどころであるわけで、文化財の地域にとっての大事さってそういうものだねえ。と考えたところでございました。