■徳川家康の母君、於代の方と師崎街道【その13】
ここまで師崎街道の道中を語ってきたが、肝心のお題にもある“徳川家康の母君、於代の方”が一向に出てこない。
おさらいとして“於代の方”(おだいのかた)とは、室町時代の1528年に東浦町にあった『緒川城』で水野家の娘さんとして生まれ、後々に徳川家康を産んだお母さんでもある。
旦那は三河国額田郡の岡崎城主の松平広忠(ひろただ)で、当然に徳川家康のお父さん。
この事から三河国の『岡崎城』、『安祥城』(あんしょうじょう)、『刈谷城』、そして尾張国の『緒川城』。
ここに尾張国の織田家、そして駿河国の今川家が関わり、お嬢ちゃんだった“於代の方”は武家の娘として翻弄する人生が始まる。
三河国に行ったり、尾張国に戻ったりと、行ったり来たりしながら、途中で徳川家康を産んで母親になり、その後も戦国時代の女性、そして母親として生き抜きました。
1582年に織田信長が“本能寺の変”で亡くなると豊臣秀吉が天下人となり、その配下となった徳川家康は京都伏見にお母さんの“於代の方”を呼び寄せ『伏見城』に住まわせている。
動乱の時代を、女性として、母親として生きた“於代の方”は、1602年にその『伏見城』で74歳に生涯を閉じる。
“於代の方”が生まれたこの尾張国は、寝ても覚めても戦(いくさ)に明け暮れる時代。
愛知県が生んだ三英傑(さんえいけつ)の性格を、ホトトギスの句に例えられている。
織田信長の『鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス。』
豊臣秀吉の『鳴かぬなら、鳴かせてみせようホトトギス。』
徳川家康の『鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス。』
ただ、尾張国の武士は、このどれでもない。
『鳴く前に、殺してしまえホトトギス。』
これである。
“鳴くか”“鳴かぬか”を待っている間に、すでに相手に殺されているのが戦国時代である。
親であれ、子であれ、関係ない。
“敵”か“味方”を見極める洞察力と判断力を備えなければなりません。
ただ、そんな時代でも、母親が子供を想う気持ちは、いつの時代も変わりません。
たとえ離れて暮らしていても、そんな母親の愛情をいっぱいに感じていたのが徳川家康です。
だからこそ、“於代の方”の晩年に自分の側に呼び寄せたのでしょう。
『もう、戦いの時代ではない。』と悟り。
冷血非情と言われる織田信長(長男)は、次男を可愛がった母親の愛情に飢えていたと言われる。
豊臣秀吉は奥さんの“ねね”を、嫁ではなく母親として接していたと思う。
歴史的な見地から観ても、母親の存在と愛情の壮大さは“京都”を持って体現している。
徳川家康は天下を納め1603年に江戸幕府を開くと、1605年にたった2年で息子の徳川秀忠(ひでただ)に将軍職を譲り、駿河国(静岡県東部)に隠居している。
この発想は、織田信長にも、豊臣秀吉にも無かったと思う。
これが“天下泰平”を具現化する手法として、母親の“於代の方”から学び心得ていたのではないか。
そう、一歩引いて子供を見守るお母さんが子育てするように。
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