■侍ノ里☆桶狭間/SAMURAI★TOWN★OKEHAZAMA【桶狭間眺望-その2】

『桶廻間村』から『大高城』方面や『鳴海城』方面を望めるかなと思ったが、距離があるためやはり無理でしたね。

たぶん、当時も煙を炊いた狼煙(のろし)を上げても、『桶廻間村』が低地のため見えなかったのではないかと思います。

そのため早馬を走らせて戦況の情報収集していたと思います。

南側は名古屋市と大府市の境目となっています。

『桶狭間合戦場』の南側にある大池から流れ出す『鞍流瀬川』(くらながせがわ)は、この地を通り大府市を通って東浦町までいき、石ヶ瀬川(いしがせがわ)と合流したのち、尾張国と三河国の境目の境川に合流しています。

この『鞍流瀬川』の名の由来ですが、“桶狭間の戦い”で敗走する今川軍の武将が豪雨で増水した川に落ちて流され、武将と馬は助け出されたが鞍(乗馬の座敷物)だけが流されていったと言い伝えられています。

そう考えると、今川軍の生き残った武士達の何人かは敗走の際、駿河国(静岡県東部)に帰らず、この地で生き延びた人もいるかもしれませんね。

大府市や東浦町は知多半島の入口でもあり、“桶狭間の戦い”の6年前の1554年に織田信長は、三河国を治める今川軍と東浦町で“村木砦の戦い”を交えています。

また、東浦町は徳川家康(松平元康)の母親の“於代の方”(おだいのかた)が生まれ育った町です。

“桶狭間の戦い”当時、“於代の方”は東浦町に隣接する阿久比町に居を構えていました。

そのため『大高城』に居城する母親想いの松平元康(徳川家康)は、『大高城』を抜け出して阿久比町まで“於代の方”に会いに行きました。

一国の武将が戦中に“お母さんに会いに行く”とは、戦国史上では前代未聞。

その事からも、一応、今川軍に付いてはいるものの、今川義元に対する忠誠心も低く、“桶狭間の戦い”にそれほど力を入れていなかった事が解ります。

その証に、今川義元が打ち取られ今川軍が敗北した事を知ると、その後すぐに織田信長と和睦(わぼく)しています。

そう考えると徳川家康(松平元康)は、世の先を見つめる事ができたのかもしれません。

それが後(のち)の徳川幕府260年(1603年~1867年)の歴史につながります。

この地の歴史調査すると、有名な“桶狭間の戦い”だけでなく、その前後の歴史的な出来事や人物の宝庫だと分かります。

これを観光資源にしない手はないと思いますね。

観光客が回りやすいルートを作り、案内板や看板だけでなく分かりやすい施設を設ければ、それなりに町の魅力は増すような気がします。

それこそ“於代の方”が最後に過ごされた京都を参考にして。

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