■侍ノ里☆桶狭間/SAMURAI★TOWN★OKEHAZAMA【桶狭間古戦場-その9】
“桶狭間の戦い”から460年が過ぎ去ろとしているのに、いまだに決着していない問題がある。
それは、“桶狭間の戦い”がどの地で行われたかである。
一般的には名古屋市緑区の『桶狭間合戦場』周辺に整備された公園となっているが、実はもう1つ『桶狭間合戦場』がある。
それは名鉄の中京競馬場前駅から国道1号線(旧の東海道)を渡った豊明市にある。
そこも公園として整備され、きちんと石碑も建てられている。
もちろん打ち取られた今川義元のお墓もある。
ただ、この地を『桶狭間合戦場』として認めているのは、豊明市の自治体など一部の人達だけであろう。
理由は簡単である。
地形を見ても、この地では説明が付かない。
『沓掛城』を出陣した今川義元が率いる今川軍は、松平元康(徳川家康)が居城する『大高城』に向かっていた。
その距離は二里(8km)位ある。
『鳴海城』方面の攻勢もあり、『大高城』の中間の『桶廻間村』に本陣を築いた。
今川軍の本陣がこの豊明市側だとしたら、山を越える手前で本陣を築いた事になる。
戦況の最中(さなか)、どのみち越えなければならない山があれば、その日のうちに山越えするのが普通ではないか?
そして超えた向こう側で本陣を築いた方が、心理的にも楽になり、なにかと有利に働く。
このため『桶狭間合戦場』の跡地は、ほぼ名古屋市側で決まっている。
ただ、これは証拠を揃えて実証された訳ではない。
今から460年も前の事を証明する事は不可能である。
この事を知った今川義元も、織田信長も、口を揃えてこう言うであろう。
『桶狭間合戦場が2ヶ所あっても良いではないか。』
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