■侍ノ里☆桶狭間/SAMURAI★TOWN★OKEHAZAMA【桶狭間古戦場-その6】
『信長坂』の丘を駆け上がって頂上付近に着くと、大学のテニスコートや農地となっている。
ただ、竹藪や森林など戦国時代の雰囲気も残してある。
1560年5月19日の当時も雨が降る中、この竹や木々を掛け分けて今川軍まで突進していったと思う。
特に竹藪は殺気だった武士が進軍するには雰囲気満点だ。
当時の想いを馳せていたら、藪蚊にいっぱい刺され『かゆいのなんの』って!
足元も不安定だし、重たい兜や鎧を付けて進撃しなければならないと思うと、武士達の苦労がよく分かる。
大将の織田信長も、それは同じであっただろう。
駿河国の名大将の今川義元が率いる今川軍に戦(いくさ)を仕掛ける事自体、当時では荒唐無稽と言われた。
弱小である尾張国の家督の織田信長や家臣達も、松平元康(徳川家康)が統治する三河国のように今川義元の家臣になるか、もしくは降伏する選択肢はあったはずだ。
それを織田信長は選ばなかった。
そこまでして織田信長を戦(いくさ)に突き動かしたのは、やはり尾張武将として『桶狭間』を“死に場所”に選んだからだと思う。
この地に立てば、織田信長の思考や行動が見えてくる。
尾張国の『清州城』から美濃国(岐阜県)への拠点造り。
京都への上洛による室町幕府の第15代征夷大将軍の足利義明(よしあき)への取扱い。
近江国(滋賀県)の琵琶湖の畔に拠点とする『安土城』の築城。
毛利軍との“備中高松城の戦い”で羽柴秀吉(豊臣秀吉)の要請で進軍する際、途中で寄った京都での『本能寺の変』。
まさに、『信長坂』の地が“信長、燃ゆ!”である。
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