■侍ノ里☆鳴海/SAMURAI★TOWN★NARUMI【鳴海城-その5】
時は旧暦5月、現在の6月の梅雨の時期。
お昼過ぎには尾張一帯に暗雲が広がりはじめ、豪雨と雷鳴が容赦なく桶狭間周辺に叩きつける。
織田信長を率いる2000名の織田軍が桶狭間近くの『釜ヶ谷』にまで進軍する。
この豪雨と雷鳴が、織田軍の馬などの姿や音をかき消し、今川軍に進撃の気配を悟らせなかった。
逆に今川軍は容赦なく落ちてくる雷に対し、兜、鎧、刀、槍、鉄砲など鉄が含まれる武装品を手放しそこらじゅうに放置し避難した。
眼と鼻の先に織田軍が居る事も知らず、さらに酒と雷で戦闘態勢どころではない今川軍。
雷雨による土砂降りの桶狭間、『釜ヶ谷』に身をひそめる織田軍。
そして暗雲が遠のき雷雨がやみ始めた頃、この一瞬に織田信長は“襲撃”を指示する。
山と山の谷間にある桶狭間、逃げ場を失った今川軍は総崩れとなる。
血気盛んな織田軍と、戦気を失っている今川軍。
結果は歴史が示したように明らかである。
ただ、織田信長は本当に、今川軍に“勝算あり”との思いで『清州城』から出陣したのか?
絶大な武力として名高い大名の今川義元を、織田信長は打ち取る事ができると思ったのか?
たぶん織田信長は、今川義元に服従したり、同盟を結んだりと、他国の大名や武将とは違い、今川軍を1人でも多く道連れにして、尾張武将として桶狭間の地を“死に場所”に選んだのではないか。
桶狭間の戦いに勝利した織田信長は、『山際迄、人数寄せられ候、にわかに急雨石氷を投打つ様に ~~~ 余りの事に、熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申し候なり。』(信長公記)と口開いたと言われる。
桶狭間に来る前に熱田神宮で“戦勝祈願”した事により、この桶狭間の戦いでは熱田大明神が見方し“運”で勝利できたと、“神仏”を一切信じないあの織田信長ですら思ったという。
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