■侍ノ里☆鳴海/SAMURAI★TOWN★NARUMI【鳴海城-その2】
すでに三河国の松平方は今川方についており、今川軍にとってみれば次は尾張国の織田方を落とすだけだった。
織田信秀が生きていた時は、まだ織田軍と今川軍のパワーバランスは保てていたが、1552年に息子の織田信長が尾張国を継ぐと、今川方にとってみれば尾張攻略のまたとないチャンス。
駿河国大名の今川義元を尾張攻めに動かした要因は3つあると思う。
①:1552年に尾張国大名の織田信秀が死去し、“うつけ者”(バカ)として今川義元にも知れた織田信長が継いだ。
②:1552年に織田軍の要でもある『鳴海城』『大高城』『沓掛城』が、山口教継(のりつぐ)と山口教吉(のりよし)の山口親子による“寝返り”と調略により今川軍の手に入った。
③:甲斐国(山梨県)の武田信玄、相模国(神奈川県)の北条氏康(うじやす)、駿河国(静岡県東部)の今川義元による、1554年の“甲相駿三国同盟”の締結で駿河国東側は安泰となる。
特に②の戦(いくさ)の前線となる尾張国の3城が手に入った事は大きかったのではないか。
山口親子の“裏切り”に対し、尾張国の家督となった織田信長も黙ってはおらず、1553年には『鳴海城』に攻撃を仕掛けたが攻め落とす事はできなかった。
桶狭間の戦いの運命の分かれ目は、ここからである。
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