■侍ノ里☆大高/SAMURAI★TOWN★ODAKA【古戦場眺望-その4】
最後に『桶狭間』方面を見たいのだが、高見櫓の位置関係でちっと難しかった。
ただ、櫓からは知多半島方面を望む事ができた。
知多半島は、『大高城』に居していた今川軍の松平元康(徳川家康)が戦(いくさ)の最中(さなか)、知多半島の北部にある阿久比に居住していた母君の於代の方に会いに行ったという。
知多半島と大高村も近いことが分かり、『せっかく岡崎城(三河国)からここまで来たのだから、お母さんに会いに行こうか!』と母想いの松平元康(徳川家康)の一面が伺える。
この時からすでに、“愛”は“戦”よりも重い事が分かる。
知多半島方面の左側が『桶狭間』方面となる。
尾張国の南端は丘と谷がつらなる緩やかな高低差がある地形だった事がよく分かる。
その向こうが三河国(愛知県東部)、そして遠江国(とおとうみのくに/静岡県西部)や駿河国(静岡県東部)につながっていく。
もともと鳴海から大高あたりまでは海が入り組んでいたそうだ。
織田信長も清州城から熱田神宮を経て、海岸沿いを通って『桶狭間』に入ったと思われる。
だからか、大高の町中を流れる大高川も、ほんのり潮の香りがする。
1958年の伊勢湾台風や2000年の東海豪雨で、甚大な被害を出したのも、元は海だった南区や海抜が低い天白区などである。
ほんの100年前までは“過去”。
やはり、それ以上前の“歴史”から学ぶ事が大切である事が、この櫓からはよく分かる。
織田信長も若い頃からこの辺りを掛け回り、地形を研究していたと言う。
その情報の蓄積が、今川義元が率いる大群を『桶狭間』におびき寄せ、桶狭間の戦いで大勝利を収める事になる。
どんな大きな軍隊でも、目に見えないゲリラ部隊には勝てない事を証明した戦(いくさ)でもある。
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